24年前の阪神大震災の記憶から私たちが受け継ぐべきもの

24年前の1月17日に発生した阪神・淡路大震災。年月が経過するのは早いものです。
 
私は16年前、神戸に住み始め、5年ほど神戸のまちに馴染ませてもらいました。
 
震災から8年。屋根が崩落したJR六甲道駅も、当然完全に復旧しており、賑わう街並み。
初めて見た神戸のまちの印象は、「きれいすぎる」というものでした。
効率的に区画整理された住宅地、路地すらもまっすぐ続く街並み、整い過ぎた街路樹…
 
震災で旧来の街並みが全て破壊されてしまった結果でした。
その瓦礫の跡から、効率的で不自然に清潔なまちが生まれてきたのです。
 
もちろん、これはJR路線以南の、震災の被害が大きかった地域に限定されており、阪急電車路線沿い等、昔ながらの趣のある街並みも残り続けています。
 
しかし、破壊されたものの中には、その街並みやそこで生きる人間が生み出すある種の文化があることは間違いないでしょう。
 
 
一方、阪神大震災によって、生み出されたものもあります。
 
震災後は、ボランティア元年とも呼ばれたように、自発的な市民活動が活発になり、コミュニティの再生が謳われた時期もありました。
 
もちろん、全てが現在もうまくいってるわけではありませんが、阪神大震災そして東日本大震災でも絆という言葉に象徴される震災コミュニティの発生が、人々を勇気づけ、新たな日本社会の訪れを感じさせたことは間違いありません。
 
阪神大震災の後、東日本大震災のときと同様に、家を失った者を支援するため、震災復興公営住宅の建設が進みます。
 
この施策は、住居確保を進める反面、公営住宅に住む世帯の大きな部分が高齢者世帯であったこともあり、入居世帯の社会的孤立への対策や地域とのつながりの維持を行う必要が生じます。
 
この点、阪神大震災の発生時点から活動していた、保健師やボランティアによる個別訪問、部屋を一軒一軒まわり、各戸のニーズを把握する営みが、震災から8年後の公営住宅であっても力を発揮していました。
 
なお、この個別訪問の取り組みは、東日本大震災においても、仮設避難所等で見られたものです。震災という非常事態により、その社会的必要性に基づいて生み出された、ある種の「文化」なのかもしれません。
 
危機的状況においても、人間というのは低劣な振る舞いを見せることもあれば、崇高で尊い振る舞いを見せることもあるという、人間一般に関わる一つの真理なのでしょう。
 
そのように、震災で得られた経験や気持ちを、形になるものや形にならないものも含め、今生きる者たちで受け継ぎ、共有するのが、毎年の1月17日という日なのかもしれません。