ドストエフスキーと「子ども」についての物語

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 
学生時代に読み散らかしたドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」久しぶりに読了。
仕事で子どもの貧困や児童福祉に関わることがありますが、久しぶりに読んで、この作品も、「子ども」についての物語であったことに改めて気づきました。
 
 
敬虔なキリスト教信徒である主人公のアリョーシャに対し、児童虐待と思われる描写を描き出した後、例えいつか神による救済がくるのだとしても、虐待され死に至った罪のない子どもたちの苦しみの上に成り立つような救済なのであれば、そのような無実の者の苦しみの上に成り立つ世界と神は認められない、と説くリアリストかつニヒリストである、アリョーシャの兄イワン。
 
イワンにそのような問題意識を吐き出させた後、おそらく世界の文学史上、最も有名なシーンの1つである「大審問官」のシーンにつながっていきます。
 
20世紀には、この大審問官のキリストに対する独白が、当時世界的な影響力を持っていた社会主義思想と結びつけられ、議論されましたが、そのような「高尚」な話は、私は解説できないので、省略します。
 
というよりは、あえて言うと、そのような「高尚」で「思想」的な議論をせずとも、この作品は素晴らしいものであり、その理由は、作品の中で、一人の登場人物の口を借りて語られています。
 
 
「子ども」たちの一人であるコーリャ。
彼は13歳でありながら、悪事すれすれのイタズラで市場の大人たちの顔馴染みとなり、周りの「子ども」たちの「啓蒙」に勤しみ、農作業を行う大人を「民衆」呼ばわりする、いっぱしの社会主義者ぶったマセガキであり、その振る舞いには、読んでいて吹き出してしまうこと請け合いです。
 
コーリャは、アリョーシャに認めて欲しいと願っており、会話の中で、敬虔なキリスト信徒であるアリョーシャに対して、(13歳にして)神学的な議論を持ちかけます。
その際に、つい、どこかで読みかじったヴォルテールの本の受け売りの文句を付け加えてしまう。
 
しかし、コーリャ少年が素晴らしいのは、そのすぐ後に、ヴォルテールの引用で知識をひけらかしているとアリョーシャに思われたのではないかと、自意識過剰な自己反省をし、興奮気味に話してしまった後、アリョーシャに次のような告白をすることです。
 
 
「仮に神がなかったら、やはり考え出さなくてはならない(注ヴォルテールの引用)」なんて言ったあの個所でも、僕は自分の教養をひけらかそうとあせりすぎてるなって気がしました。まして、あの文句は本で読んだものですしね。でも、誓って言いますけど、僕が知識をひけらかそうとあせったのは、虚栄心のためじゃなく、ただ、なぜか知りませんが、喜びのためなんです。(中略)だけどその代わり、今や僕は、あなたに軽蔑されてるんじゃない、そんなことは僕がひとりでくよくよ考えだしたんだという確信ができましたよ。ああ、カラマーゾフさん(アリョーシャのこと)、僕はとても不幸なんです。僕はときおり、みんなが、世界じゅうの人間が僕を笑っているなんて、とんでもないことを想像するんですよ、そうすると、ただもういっさいの秩序をぶちこわしたい気持になるんです。
 
 
ここで、コーリャは、つい反射的に使ってしまった本の引用について、自分の言葉ではないことをすぐに認識し、それを相手に正直に伝えている点が、非常に誠実です。
 
また、このコーリャ少年の、他者と関係を結ぼうという「喜び」のもと自己から生み出そうとした言葉が、独り歩きすることで自己を裏切ってしまい、そして他者を傷つけてしまうという告白は、古今東西、人間社会全般に見られることでもあり、私たちにとって普遍的なテーマなのではないでしょうか。
 
特に、SNSの普及でいろんな人が気軽にコメントを世界に発言できるようになった昨今においては、よりリアルなテーマであるように私は思います(他者とのつながりを求める気持ちが、他者を傷つけてしまう)。
 
 
さて、このコーリャが出てくる「少年たち」という章は、この作品の主題である殺人事件が進んでいく中で、突如加わる章であり、作品構成の不自然さを指摘する意見もあるようなのですが、私はこの章があるために、この作品の最終章が輝けるものになっているように思えます。
 
 
この作品の最終章では、理不尽な運命でこの世を去ってしまった「子ども」であるイリューシャの葬式とその親の悲しみが描かれます。
 
イワンが述べたように、この世界というのは「子ども」たちの悲劇的な運命の上に成り立つ社会でもある。
気がつけば、この作品に出てくる人物は、家族関係が破綻している者ばかりです。
アリョーシャや兄のイワン、ドミートリーは、母親が幼い頃に亡くなり、事実上親から育児放棄された状態で育ちます。コーリャや、アリョーシャの思想的父であるゾシマ長老も父親を亡くしており、スメルジャコフにいたっては父親が誰かわからない…。
 
家族関係が破綻してしまった場合に、人はどうしたら救われるのか。
この答えは、この作品で描かれる2つの「復活劇」にあるのではと思います。
 
 
1つ目は、犬のジューチカにまつわるエピソード。
亡くなる前に、イリューシャはジューチカという犬を可愛がっていますが、スメルジャコフに唆されて、ピン入りのパンを食べさせてしまいます。そして、悲鳴を上げてどこかに逃げてしまったジューチカにしてしまったことを、イリューシャは非常に後悔しています。
 
その後悔もおそらく病状に影響があったのだろうと思いますが、しだいに弱っていって死の床につこうとする少年。ジューチカ、ジューチカと悔やみ続けます。そこで、あのマセガキぶっていたコーリャが、サプライズで少年のもとを訪れ、ペレズヴォンというコーリャが最近飼い始めた犬を披露します。犬を見たイリューシャは、これはジューチカだと言って、ジューチカの「復活」を喜ぶ…。
 
実は、ペレズヴォンをジューチカと言明するのは、このイリューシャの発言だけであり、作品の中で、ペレズヴォン=ジューチカであるとははっきりと述べられてはいないのです。
その方がハッピーエンドっぽいのでそうであって欲しいのですが、例えば、自分の先が短いことを理解したイリューシャのこの発言。
 パパ…泣かないでよ…僕が死んだら、ほかのいい子をもらってね…みんなの中から自分でいい子を選んで、イリューシャって名前をつけて、僕の代わりにかわいがってね…

 

 
イリューシャ本人により、「イリューシャ」が他の存在で置き換わる可能性があることを示唆していますが、これはジューチカとペレズヴォンの関係にも当てはまるでしょう。
 
 
 
2つ目の「復活劇」は、この作品の最後のエピソードとなる、イリューシャの葬式そしてアリョーシャと子どもたちの未来への誓いのシーンです。
 
ついにイリューシャは亡くなってしまい、悲しみにふける家族たちや子どもたち。
そんな中、小道のそばの大きな石のそばで、子どもたちを集めて、アリョーシャはこのように説きます。
 
みなさん、このイリューシャの石のそばで、僕たちは第一にイリューシャを、第二にみんなのことを、決して忘れないと約束しようじゃありませんか。…たとえ僕たちがどれほど大きな不幸におちいっても、同じように、かつてここでみんなが力を合わせ、美しい善良な感情に結ばれて、実にすばらしかったときがあったことを、そしてその感情が、あのかわいそうな少年に愛情を寄せている間、ことによると僕たちを実際以上に立派な人間にしたかもしれぬことを、決して忘れてはなりません。
 
 
 
ある存在が失われること。それは、親しい者にとっては、悲劇的な出来事でしょう。
しかし、人は新たな関係を築き出すこともできます。
 
 
ペレズヴォンはジューチカではないかもしれない。したがって、前のジューチカとの関係性を築くことはもはやできない。しかし、新たなジューチカであるペレズヴォンとは、これまでのジューチカとの関係とは少し違う、新しい関係性を築くことができる。
 
また、イリューシャは亡くなったかもしれないけれども、それで終わりではない。イリューシャとそれぞれが築いた関係は、その周りの人間やその他の人たちを結びつける媒体となります。
 
 
 
児童虐待が起こると、家族は破壊され、虐待を受けた子どもは、それまでの多くの人間関係を失うことになります。
 
虐待事件が起こると、事件当時、家族に適切に介入ができたかや、子どもの保護の必要性について、報道が集中します。
 
それはもちろんとても重要なことなのですが、同じくらい重要なのが、虐待を受けた後に、その子どもがどのように生活を再建していくかです。
 
家族は破綻してしまった、多くの子どもは頼れる身寄りもない…行政や関係機関は、事件が報道されている期間だけでなく、その子どもが大人になり、生活が再建できるまで、末永い支援が必要となります。
 
 
その際に、いかにして人は新たな関係を築きあげることができるのか。
この作品は、その問いに1つの答えを示してくれているような気がしています。