現在の沖縄を語ることは難しい

 

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

 

 

現在の沖縄を語ることは難しい。
 
 
大江健三郎という象徴的な人物がいる。60年代の学生運動と並走する形で文学作品を書き始め、その闘争的なパトスと四国の土着的な力が交差するところに生ずるカタストロフィを描いた代表作である「万延元年のフットボール」を世に出し、護憲運動に関わり、戦後民主主義を標榜する文化人。
 
大江は、「沖縄ノート」を著し、沖縄戦における日本軍の責任を批判し、沖縄に対する負い目を時折語っていたという。
 
このような、沖縄の太平洋戦争時や戦後の経緯を我が事のように考え、「負い目」を感じるという振る舞いは、戦後思想として、80年代までは力を持っていたが、おそらく2010年代末である今日においては、力を持つことはできないであろう。
 
 
これは戦後思想だけでなく、政治の世界でも同様であり、そのように「負い目」を元に沖縄政策を考えるという振る舞いができたのは、橋本元総理や小渕元総理までが最後の世代ではないかと思う。
 
翻って、現在の政権と沖縄県の関係は、辺野古新基地建設の是非という、非常に解決が難しい反面、構図としては、白か黒かの単純な対立の図式に収まっている。
 
第一、「負い目」を思い出させる存在なんてものは、近くにいて居心地の悪いものだ。正直なところ、そんな存在、あまり関わりたくないというのが人情であろう。
 
だとすれば、「負い目」なんて道徳的で情緒的な概念なんかは使わず、ただただ地政学的リアリズムで沖縄や基地を語ってみれば、自ずと沖縄についての語り口が決まるのではないか。
 
これはネット右翼が賛同しそうな意見で、今日の日本ではそこそこ支持を得られそうだが、よく考えると、意外にこの見解は、足元が心もとないのではないかと思う。
 
というのも、どうしてもこの手の議論は、イデオロギーや宗教間の争いに近くなる構図がある。
 
例えば、法律上の争いがあったとして、当初は当事者間の議論があり、段々弁護士を交えた話し合いになり、裁判に移行していく。
この場合の最終的な審級は、日本国においては最高裁判所であり、最高裁判所の判決が全てを決める。それ以上はない。もちろん最高裁の判決が常に正しいかどうかは別として。
 
一方、何がリアリズムかという争いには終わりはない。各自が、自分こそがリアリズムであると主張している世界。いくら権威のある学説やデータ、政府の高官の意見等を持ち出してきたとしても、結局のところ一意見でしかなく、裁判における最高裁判所のような最終的な審級が存在しないのだ。
 
ま、こんな回りくどい説明をしなくても、皆さんの身の回りに、「僕はリアリズムの観点から沖縄はこうあるべきなんだよね」と言う人がいたとしたら、おそらく社交辞令程度の賛意は示すかもしれないが、内心では「この人の心の中ではそうなんだろうな」と呟いて時間をやり過ごすのが関の山であろう。
 
 
ということで、意外に足場がもろい語りにしかならないのではないか。
 
「負い目」のような情緒的・経験論的な語りもできず、リアリズムのような合理論的な語りもできないのが、今日の沖縄を巡る磁場である。
 
 
現在の沖縄を語ることは難しい。
だが、我々に必要なのは、無理に分かりやすい構図に収めようとせず、ある語り方によって光があたる部分があること、逆に、見えなくなってしまう部分があることを、常に心のどこかに留めておきながら、向かい合っていくことではないか。
 
戦後民主主義の象徴として例に出した大江健三郎だって、単に道徳的で聖職者のような作家ではない。大江の代表作である「万延元年のフットボール」は、カタストロフィへの情熱と過激さを描いたものであり、土着的な雰囲気とも相まって、あえて言うと「右翼作品」と言ってもいい佇まいである。
 
分かりやすい構図に落としこまず、まず向き合ってみること。そこから全てが始まる。