宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

 

銀河鉄道の夜 (岩波少年文庫(012))

銀河鉄道の夜 (岩波少年文庫(012))

 

 

何気なく久しぶりに読んだ、宮沢賢治銀河鉄道の夜。こんなに素晴らしい作品だったことを、なぜ忘れていたのだろう。作品世界に心を奪われるということを久しぶりに経験した(カラマーゾフの兄弟以来)。
 
 
主人公のジョバンニは、作品の初めから最後まで、一貫して「寂しさ」を感じている。
父親がいない「寂しさ」、学校以外の時間を労働に充てなければならないことの「寂しさ」 、その結果、学校生活に溶け込むことができず、クラスメイトから浮いてしまうことの「寂しさ」。
 
主人公の「寂しさ」からくる孤独感が、少年を銀河鉄道の旅へといざなっていく。
 
 
旅のパートナーとなるのは、少年のクラスメイトの一人である、カムパネルラ。親同士が友人であり、幼い頃から一緒に過ごしてきた事実から、ジョバンニが最も親愛の情を感じる人物として描かれている。
 
しかし、ジョバンニとカムパネルラの境遇には断絶がある。博士という肩書きの父を持ち、裕福な家庭で育ったと思われるカムパネルラに対し、漁師であろう父親が行方不明であり、自身も働きながら家計を支えるジョバンニ。この二人の境遇の差は、ジョバンニの「寂しさ」と孤独感を、より深めるように働く。
 
 
旅の最後、カムパネルラが急に消えてしまい、ジョバンニは、車窓から闇夜に向かい絶叫する。しかし、ジョバンニは、旅の初めから、カムパネルラが途中でいなくなってしまうことを、無意識のうちに知っていたのではないかという気がしてならない。
 
 
それは、「僕たち一緒にいこうねえ」と二度もカムパネルラに確認する仕草や、カムパネルラと女の子が話している姿に悲しさを覚えるシーンからも伺えるが、何より、この旅が、孤独感のまま、丘の平野に寝転がったところから始まることが、その論拠となる。
旅とは、基本的に孤独なものなのだ。
銀河鉄道から降りた後も、孤独な旅を続けていかなくてはならないことを、この銀河鉄道の旅で学ぶことになる。
 
 
その孤独な旅は、本当の「さいはい(幸い)」を求めるジョバンニにとっては、ある種の宗教性を帯びたものになる。
 
宮沢賢治日蓮宗系の国柱会に所属していたことはよく知られている。
また、作品中、ハレルヤやバイブル等、キリスト教的なモチーフが出てくる。
しかし、作品の最後でジョバンニが決意する本当のみんなの「さいはい(幸い)」という言葉には、特定の宗教の匂いは感じない。
 
 
それは、どんなに親愛の情を感じ、心が通じあった者がいたとしても、いつかは別れなくてはならない、そして、「寂しさ」や孤独感を抱えながらも、決意を持って、自分の道を歩いていかなければならないということが、誰にとってもいつか経験し、乗り越えなければならないことであるからではないかと思う。