宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
主人公のジョバンニは、作品の初めから最後まで、一貫して「寂しさ」を感じている。
父親がいない「寂しさ」、学校以外の時間を労働に充てなければならないことの「寂しさ」 、その結果、学校生活に溶け込むことができず、クラスメイトから浮いてしまうことの「寂しさ」。
主人公の「寂しさ」からくる孤独感が、少年を銀河鉄道の旅へといざなっていく。
旅のパートナーとなるのは、少年のクラスメイトの一人である、カムパネルラ。親同士が友人であり、幼い頃から一緒に過ごしてきた事実から、ジョバンニが最も親愛の情を感じる人物として描かれている。
しかし、ジョバンニとカムパネルラの境遇には断絶がある。博士という肩書きの父を持ち、裕福な家庭で育ったと思われるカムパネルラに対し、漁師であろう父親が行方不明であり、自身も働きながら家計を支えるジョバンニ。この二人の境遇の差は、ジョバンニの「寂しさ」と孤独感を、より深めるように働く。
旅の最後、カムパネルラが急に消えてしまい、ジョバンニは、車窓から闇夜に向かい絶叫する。しかし、ジョバンニは、旅の初めから、カムパネルラが途中でいなくなってしまうことを、無意識のうちに知っていたのではないかという気がしてならない。
それは、「僕たち一緒にいこうねえ」と二度もカムパネルラに確認する仕草や、カムパネルラと女の子が話している姿に悲しさを覚えるシーンからも伺えるが、何より、この旅が、孤独感のまま、丘の平野に寝転がったところから始まることが、その論拠となる。
旅とは、基本的に孤独なものなのだ。
その孤独な旅は、本当の「さいはい(幸い)」を求めるジョバンニにとっては、ある種の宗教性を帯びたものになる。
また、作品中、ハレルヤやバイブル等、キリスト教的なモチーフが出てくる。
しかし、作品の最後でジョバンニが決意する本当のみんなの「さいはい(幸い)」という言葉には、特定の宗教の匂いは感じない。
それは、どんなに親愛の情を感じ、心が通じあった者がいたとしても、いつかは別れなくてはならない、そして、「寂しさ」や孤独感を抱えながらも、決意を持って、自分の道を歩いていかなければならないということが、誰にとってもいつか経験し、乗り越えなければならないことであるからではないかと思う。