村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」
村上春樹の自己言及的なタイトルを持ったエッセイ集である、「走ることについて語るときに僕の語ること」。
「走ることについて語るときに僕の語ること」とは何か。
自慢するわけではないが(誰がそんなことを自慢できるだろう?)、僕はそれほど頭の良い人間ではない。生身の身体を通してしか、手に触れることのできる材料を通してしか、ものごとを明確に認識することのできない人間である。何をするにせよ、いったん目に見えるかたちに換えて、それで初めて納得できる。インテリジェントというよりは、むしろフィジカルな成り立ちをしている人間なのだ。
そこで、身体を動かすことが重要となる。
他者とぶつかったときは、いつもより長い距離を走ることで、自分を磨き、自分の中に飲み込んだ上で、いつの日か物語という形で放出する。
ストイックでもあり、社会からの孤絶感を原料もしくは食物のように消化して放出していく動植物のようなあり方、これが作家村上春樹にとって、自然的なものとして描かれる。
小説家にとって書き続ける上で重要なのは、集中力と持続力だと説く村上にとって、走り続けることが、その力を補強するものである。
このような、身体の動きが精神に与える影響を重視する言説は、アランの「幸福論」を思い出させる。
アランも不機嫌から逃れるには、判断力ではどうにもならず、適当な運動を与えるべきだと説いたのであった。
そういえば、アランの「幸福論」とこの本は、一種のメモワールという点で共通している。
走るということは、村上春樹にとっては、本質的にどういうことなのであろうか?
川のことを考えようと思う。雲のことを考えようと思う。しかし本質のところでは、なんにも考えてはいない。僕はホームメードのこぢんまりとした空白の中を、懐かしい沈黙の中をただ走り続けている。それはなかなか素敵なことなのだ。誰がなんと言おうと。
読んで、走りたくならない者はいない、そんな珠玉のエッセイ集。