【映画】新海誠「天気の子」ーその「反道徳性」と「子ども」の世界

 

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公式HPより
  
以降、映画の内容についてネタバレがありますので、未視聴の方はご注意ください。
 
なお、映画を見るにあたって、事前に何の情報も入れずに視聴し、この記事を書いている現在も、他のブログの関連記事等は一切見ていない(登場人物の漢字表記だけWikipediaを閲覧した)。
また、普段はあまりアニメを見ない人間なので、不勉強による誤り・誤解等があれば、ご指摘いただければ幸いです。
 
 
「天気の子」ーその挑戦的な姿勢
 
 
新海誠監督の「天気の子」を見てきた。
 
視聴前に予想してた以上に、かなり「攻め」ていて、その点がとても感心し、余韻が残る。
エンターテイメント的にどうなのかはよくわからない。
というのも、議論を巻き起こす内容となっており、もちろん新海誠も意図的にそれを行っている。
挑戦している姿勢自体は、素直に応援したい気持ちがある。
 
 
「天気の子」ーその反「道徳性」
 
 
まず、「天気の子」は、反「道徳的」な作品である。
 
主人公である帆高は、16歳の高校生であるが、よくわからない理由で家出を行い、生まれ育った町を離れ、東京に出てくる。
 
家出の理由は、本人の口から「何となく息苦しかった」と述べられるばかりで、作品中では最後まできちんと説明されない。
 
 
東京では、働き口を探すが(労基法違反だ)、なかなか見つからず、職務質問をする警察官からは逃亡し、偶然拾った拳銃が本物であることが判明したにも関わらず、警察には届けず(身バレする危険性を考慮したのかもしれないが)、廃ビルのフロアの一角に放置する。
 
豪雨でも一定時間晴れにするという、天気を操ることができるヒロインの陽菜と出会い、その超自然的な能力を生かし、「晴れ女ビジネス」をネットで始める。
この試みは、ビジネスとしては大変成功したような描写がなされるが、このままだと脱税行為にあたるだろう。
なお、少女も、主人公と出会った場所であるファーストフード店においては、年齢詐称を行い、児童であるにも関わらず、労働を行っていた。
 
いよいよ、警察の追求が迫り、お世話になった須賀による「地元の家に帰った方がよい」というアドバイスにも関わらず、警察から逃亡することを選択した主人公の帆高は、児童相談所による保護が社会的には望ましい陽菜とその弟である凪に、「一緒に逃げよう」と勧誘する。
 
逃避行は、確かに恋愛ドラマの一ジャンルではあるが、帆高のこの勧誘は、陽菜と凪に反社会的な生活を誘導するのと同様の行為であり(二人の教育の機会はどうなるのだ)、また、お世話になった須賀の社会的立場をも危うくする行為である。
 
想像するに、陽菜の生活を慮る意図、陽菜と一緒にいたいという想い、地元に帰りたくないという気持ち、が入り交じった上でなされた行為なのかもしれないが、なぜ地元に帰りたくないかが不明なので、いまいち帆高のこの行為に感情移入することができない。
 
当然、この逃避行がうまくいくはずはない。
陽菜が消えてしまった後、警察に発見され、一度は大人しく捜査に協力するように見えた帆高だが、陽菜を探し出すために警察署から脱走する。
 
須賀の姪である夏美は、あまり躊躇することなく、帆高の警察からの逃亡を手伝い(職務執行妨害+道交法違反)、須賀も、一度は大人の振る舞いを見せるかと思いきや、捕り物中の土壇場で帆高の逃亡を助ける。
 
帆高は、一度放置した拳銃を、廃ビル天井に向けてではあるが発射し、追求してきた警察官に対してさえ銃口を向ける。
殺人未遂に問われてもおかしくない行為であり、アメリカだったら射殺されているかもしれない。
 
何度も恐縮だが、この帆高の他人に銃口を向けてまでビル屋上に上がろうとする行為も、陽菜に対する恋愛感情に因るものなのだろうが、あまり感情移入できない。
 
結果として、帆高は陽菜を取り戻すものの、保護観察処分となり(処分が軽すぎないか?)、須賀も夏美も警察に逮捕されてしまう。
 
 
 
さて、ここまで、「大人」の視点で、道徳的・社会的な問題を語ってきた。
だが、そのような「大人」の視点なんて、無価値なのかもしれない。
少なくとも主人公の帆高にとってはそうだし、作品の世界観から言ってもそうだ。
なぜだろう?
 
 
「天気の子」ー「子ども」と「大人」の対立
 
それは、こうだ。
「天気の子」の世界においては、明確に「子ども」と「大人」の世界観は対立しており、両者は交わることはない。
そして、この世界の創造者である新海誠は、「子ども」の世界観の方をより称揚しているように見える。
 
象徴的なのは、主人公たちの食事のシーンだろう。
例えば、帆高が陽菜の部屋を初めて訪問するシーン。
 
「初めて女子の部屋を訪問するのか」なんて微笑ましいセリフを帆高に呟かせながら、帆高と陽菜の関係性が深まるシーンであり、「晴れ女ビジネス」の流れにつながる重要なシーン。
そこで陽菜が帆高に出す手料理が、袋入りインスタントラーメンとポテトチップスを炒めた?ものである。
 
これはもしかすると「美味しい」ものなのかもしれない。
しかし、どうみてもジャンクで「貧しい」ものである。
少なくとも、私も含め、自称「常識的」な「大人」の視点からは。
 
だが、作品の世界観からは、そんなウザい「大人」の視点はどうでもよく、キラキラした演出とともに画面に登場し、美味しそうに帆高に食されることになる。
 
同じような状況は、逃亡先のホテルで帆高、陽菜、凪に食されるたこ焼きや焼きそば等にも言える。
 
これら「大人」にとっては貧しい食事は、「子ども」たちにとっては、魅力的で、お互いの親睦と共同性(共犯性?)を高める重要なツールとなる。
 
これら作品に登場する、貧しい食事や親のいない子ども、児童相談所等のモチーフは、どうしても、子どもの貧困や児童虐待など、現代日本の子どもをめぐる状況を想起させる。
 
 
 
 
当然、監督である新海誠は、現代日本を想起させるよう、意図的にそう描いているのだろう。
 
帆高は親元から逃げ出し、陽菜と凪は、児童相談所という「大人」たちから逃げ出す。
「子ども」たちである帆高、陽菜、凪にとって、親(「大人」たち)の保護とは、逃げ出さなくてはならない事象なのだ。
例え、「大人」たちが大事に拝んでいる法律や道徳から背く行為であったとしても。
 
 
「天気の子」ー「君の名は」の反省的反復
 
新海監督の前作「君の名は」においては、タイムスリップすることで、主人公たちは恋に落ち、また彗星の落下が予測できたことで多数の人命を救う。
ヒロインの命も救われたことで、主人公との恋愛も成就するという結末になっている。
 
では、「天気の子」はどうか?
 
「天気の子」においても、主人公が超自然的な現象を利用することで、ヒロインを救出することは共通している。
 
しかし、「君の名は」においては、恋愛を追求することがそのまま、社会の救済につながっていたのに対し、「天気の子」においては、そうならない。
 
恋愛を追求することは、社会の救済につながらず、逆に、両立せず矛盾するものとして現れる。
主人公はどちらかを選択しなくてはならない。
そして、主人公は、恋愛の追求を選択する。
結果、社会は救済されず、東京は水没する。
東京が水没した景観は、東日本大震災津波被害の後を想像させずにはいられない。
 
 
 
図式的に表現すると、
「君の名は」においては、恋愛の追求→社会の救済、となっていたため、
 
恋愛の追求=社会の救済
 
という公式だと思っていたが、
新海監督としては、実はそうではなく、
 
恋愛の追求>=社会の救済
 
が正しい公式なのだ。
 
したがって、両者が対立するときは、社会より恋愛が選択されなくてはならない。
 
これは「君の名は」の内容についての視聴者の捉え方を、新海監督が振り返った上で、反省的に改めて表現し直したのではないかと感じた。
 
上の公式のとおり、社会の救済と恋愛の追求が対立する場合、後者の方が重要であると、改めて視聴者に訴えかける。
「君の名は」が多数の視聴者に受ける優等生的な作品であるのに対し、「天気の子」が挑戦的で議論を巻き起こす内容になっているのは(私にはそう見える)、以上のような監督の考えが働いているのではないか。
 
 
最後に
 
「子ども」たちは、「大人」たちの価値観に関わらず、お互いで共同性を高め、社会の救済より恋愛を追求する。これが「天気の子」の世界観である。
 
作品のラストで、帆高が陽菜と再会したときに涙を流しながら「大丈夫!」と喜びを込めて叫ぶ。
しかし、何が「大丈夫」なのだろうか?
わからず屋の「大人」である私には、まったくわからない。
「天気の子」は、そのような挑戦的で何か余韻を残す恐るべき作品であると思う。