坂口安吾「日本文化私観」ー「いい」ものは「いい」のだ

 

 

説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。
日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。

 

いわゆる「日本人論」には、どうしても、ある種の違和感が感じられてしまう。
その理由は、大きくいうと次の2つである。
 
 
まず、日本人の一定数にある特性が感じられたとして、それを日本人全体に適用できるのかという疑問。
ネット用語で表現すると、「主語が大きい」問題。
 
 
2つ目は、自身の特性を、適切に歪みなく認識できるのかという問題。
 
もし、日本人的といわれる文化体系に基づき自身の思考原理が決まっているとすれば、自身の前提となっている文化体系自体を、曇りなく認識することが可能なのだろうか。
要するに、「自分のことは自分ではわからない」問題、がある。
 
 
このような問題点を克服するために、「他者」の視点を持ち出すというやり方がある。
例えば、「日本人」を語るために「外国人から見た日本人」像を持ち出すやり方。
現代のテレビ番組などでもお馴染みである。
 
しかし、この「外国人」を持ち出すやり方は、時に「日本人」と「外国人」の違いを固定的なものとし、「外国」は普遍的なものであるという見方から、逆反射的に、特殊性のある「日本」を捉えるという考えに陥ってしまうことにもつながった。
 
 
オリエンタリズム 」と安吾のユーモア
 
このような外国・西欧=普遍、日本・東洋=特殊というような固定的な見方は、1978年にエドワード・サイードによる「オリエンタリズム」の発表以降、批判的に検討されることになるが、坂口安吾は、1942年に発表された「日本文化私観」で、このへんの機敏について、ユーモアたっぷりに論じている。
 

 

 

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

 

 

いつかコクトオが、日本へ来たとき、日本人がどうして和服を着ないのだろうと言って、日本が母国の伝統を忘れ、欧米化に汲々(きゅうきゅう)たる有様を嘆いたのであった。成程、フランスという国は不思議な国である。戦争が始ると、先ずまっさきに避難したのはルーヴル博物館の陳列品と金塊で、巴里(パリ)の保存のために祖国の運命を換えてしまった。彼等は伝統の遺産を受継いできたが、祖国の伝統を生むべきものが、又、彼等自身に外ならぬことを全然知らないようである。

 

「知日」外国人が嘆く。
和服こそ、日本人的な美を感じる伝統的な象徴であるのに、伝統を担うはずの日本人自らそれを捨て去るのは、何事かというわけだ。
 
このような、一見「日本文化」に寄り添いながらも、ある一定のイメージに押し込めようとする視線に対して、安吾は、その見方の「狭さ」を指摘する。
 
だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国に於(おい)て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、日本に於て行われて、外国には行われなかった習慣が、実は外国人にふさわしいことも有り得るのだ。

 

昔行われていたから、日本に相応しいかというと、そうではないこともあるかもしれない。
文化というのは、もっと柔軟に考えられるべきだ。
 
文化が魅力を放つのはなぜか
 
もちろん、いわゆる「日本文化」が素晴らしいのも間違いはない。
京都祇園の舞妓たちを東山ダンスホールに連れ出す描写は、この作品で最も魅力的なシーンの一つである。
 
僕達は五六名の舞妓を伴って東山ダンスホールへ行った。深夜の十二時に近い時刻であった。…ダンスホールは東山の中腹にあって人里を離れ、東京の踊り場よりは遥(はる)かに綺麗だ。満員の盛況だったが、このとき僕が驚いたのは、座敷でベチャクチャ喋しゃべっていたり踊っていたりしたのでは一向に見栄(みばえ)のしなかった舞妓達が、ダンスホールの群集にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、西洋人もてんで見栄えがしなくなる。成程、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった。

 

「着物とダンスホール」という一見突飛であるにも関わらず、この上なくしっくりくる組み合わせは、着物の魅力を引き出す上で説得力がある。

 
ここで、「着物」が独自の魅力を発揮し得たのは、いかなる理由によるものなのだろうか?
 
舞妓のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。

 

そう、重要なのは、実質なのだ。
必要なのはその文化が「いい」ものなのかどうかである。
「いい」ものは、それだけで「いい」ものなのだ。
 
 
「いい」ものは「いい」のだ
 

「日本文化私観」が著されてから70年以上たち、現在の我々は、観光産業、外国客誘客のため、“フジヤマ”“ゲイシャ”的なモチーフを微温的に利用し、“クール・ジャパン”の名のもと、マンガやアニメを、絵巻物等、日本の古来の伝統につながるもの、として称揚している。

 

霞を食べて生きていくことはできない以上、食いぶちを稼ぐために、過去の日本の文化のモチーフを利用するのも、やむを得ないのかもしれない。

 

だが、古来からのモチーフだけにこだわっていては、自らの見方を狭くしてしまわないだろうか。

 

アニメやマンガが素晴らしいのは、古来の日本の伝統につながっている「から」、素晴らしいのではない。

アニメやマンガは、伝統如何に関わらず、「それ自身で」素晴らしい。

そう、「いい」ものは「いい」のだ。

 

そんな当たり前のことを思いだし、健康的な認識を取り戻すために、「日本文化私観」はおすすめです。