司馬遼太郎「対談集 日本人への遺言」ー宮崎駿は司馬遼太郎に何を語ったか

 

対談集 日本人への遺言 (朝日文庫)

対談集 日本人への遺言 (朝日文庫)

 

 

 

何気なく、家の書庫にあった本作品を手に取ってみると、大前研一武村正義田中直毅らに並んで、対談相手に「宮崎駿」の名前があるのに驚き、読み進める。
 
とはいえ、司馬遼太郎宮崎駿は以前にも対談を行っており、本対談が雑誌に掲載された1か月後である1996年2月、司馬は72歳でこの世を去ることになる。

 

時代の風音 (朝日文芸文庫)

時代の風音 (朝日文芸文庫)

 

 

 
 
この対談を読むまで、司馬遼太郎宮崎駿の間に、接点や共通点を思い浮かべたことがなかった。
 
だが、改めて考えてみると、2つの共通点を見いだすことができる。
 
1つは、太平洋戦争が作品に影響を与えている点。
 
1923年生まれの司馬は、大阪外国語学校(現 大阪大学国語学部)の卒業後、戦車隊に配属、中国満州地方での軍歴を経て、終戦を迎える。
軍歴も踏まえた昭和軍人に対する否定的感情から、坂本龍馬日露戦争の秋山兄弟など、大正以前の日本人を作品の主題に取り上げることにつながったことはよく知られている。
 
宮崎駿は1941年生まれと、司馬遼太郎とは18年の年の差がある。
当然、宮崎自身に軍歴はないが、軍需産業に携わる宮崎航空興学を経営する一族に生まれ、反戦主義者でありながらミリタリーマニアでもあるアンビバレントな側面が周囲の様々な解釈を生みつつも、「零戦」が大空で美しく飛ぶ「風たちぬ」を作り上げた。
 
 
2つめは、日本古来の自然を尊重する姿勢を持つ点。
 
森に生きる不思議な生物を描いた「となりのトトロ」や、森と人間の対立と共存を描いた「もののけ姫」を代表作に持つ宮崎駿はもちろんのこと、司馬遼太郎の、日本の土地や自然を守らなくてはならないという思いは、この対談においても滲み出ている。
 
宮崎  …たとえば、未来の地球の人口が百億になることを想定して物事を考えたりするのは、非常に傲慢な感じがする。とても百億までいかないだろうと思ってしまいます。
司馬   一つの種が百億にまで増え、他の動物や植物に打撃を与えつつ生きるなんて、確かにおかしいですね。しかし、鎌倉時代の人口は八百万だったそうです。いまは一億三千万。鎌倉時代に宮崎さんが生きていたら、とても一億三千万になるとは思わないでしょう。
宮崎   思わないでしょうね。
司馬   彼らは自然を含めて他に害を与えつつ、一億の人口を維持している。

 

 
司馬は、別の対談でも、田中角栄の「日本列島改造論」以降、土地が投機の対象になった日本の現実を批判し、古来から持っていたはずの、日本の土地に関する倫理を思い出すべきだと警鐘を鳴らしている。
 
 
司馬遼太郎は宮崎作品をどう思ったか
 
こうなると、先に宮崎駿の代表作として挙げた「となりのトトロ」や「もののけ姫」を、司馬がどう受け止めただろうか、気になるところだ。
 
司馬   宮崎さんの作品は本当によく見てるんですが(笑い)、「となりのトトロ」では、親玉のトトロと小さなトトロがでてきて、どれもこれも形がいいですね。親玉トトロのおなかのフワフワしたところとかね。ああいう、生き物としてのぬめりのような表情が、芸術の本質だと思ったりしています。
宮崎   みな妄想なんです。ぼくの妄想以外の何ものでもないんです。昔から、元気な森の中には恐ろしい物の怪がたくさんいるという妄想がありまして...。実は、いま取りかかっている映画にも物の怪が出てきます。森を切る人間と、それと戦う神々の話で、神々は獣の形をして出てきます。大変なテーマで作り始めてしまいました。

 

 
制作に3年かけたという「もののけ姫」は1994年にはストーリー・ラインが作成されており、翌1995年には企画書も完成。対談が行われた次の月である1996年2月から本編の撮影が開始されている。
この対談時点においては、「もののけ姫」撮影開始直前であり、宮崎の頭には、実現されるはずの「もののけ姫」の絵もかなり具体的にイメージされていたはずだ。
司馬との対談が、作品に影響を与えていたかもと考えると楽しい。
 
上記サイトで「もののけ姫」の制作日誌が読めます。スゴイ!
 
 
それにしても、自分の作品を「みな妄想なんです」と恐縮する宮崎の姿は、他の場所ではなかなか見られない。
 
 
作品は誰に対して描くのか
 
個人的に、この対談で最も好きな箇所は、宮崎駿の以下の発言部分だ。
 
宮崎   いや、「紅の豚」は作っちゃいけない作品だったんです。
司馬   どうして?
宮崎   ぼくはスタッフに子どものために作れ、子どものために作れといってきたんです。自分のために作るな、自分のためなら、本を読めといってきたんですが、恥ずかしいことに自分のために作ってしまいました。

 

 
おそらく「風たちぬ」もそうだろう。
もしかしたら他の作品もそうなのかもしれない。
 
宮崎のこの発言は、司馬遼太郎が、自分の作品に対する思いとして述べた、「23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」とする発言と共鳴しているようにも思う。
 
二人は、案外、近いところにいたのかもしれない。