ヘルマン・ヘッセ「車輪の下で」ーそれでも少年たちはキスをする

 

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

 

 

ハンスは自分の手を、権力者が差し伸べた右手の上においた。校長はきまじめな穏やかさでハンスを見つめていた。「よろしい、それでいいよ、きみ。手を抜いちゃいかんよ。さもないと車輪の下敷きになってしまうからね」
 
作者ヘルマン・ヘッセについて
 
ヘルマン・ヘッセは、1877年に南ドイツに生まれる。
少年時代は、神学校に進学し、家族の期待を背負った堅実なエリートコースを歩みながらも、詩人になりたいという願望もあり、学校を脱走したり、精神を病んだ結果、退学となる。
 
退学後は、ノイローゼの治療や、機械工の見習いなどをして過ごすが、18歳で書店に就職すると生活が落ち着き始める。
22歳で最初の詩集を出し、27歳で出した小説で一躍有名となる。「車輪の下で」は、その次の作品であり、1906年、ヘッセが29歳のときに出版される。
 
1906年のドイツは、宰相ビスマルク下野後の、皇帝ヴィルヘルム2世による対外拡張政策が採られており、フランスとの間でモロッコを巡る紛争が発生している(第一次モロッコ事件)。
 
8年後の1914年には第一次世界大戦が勃発しており、ヘッセが戦争反対を表明すると、ドイツのジャーナリズムから攻撃されることになる。
 
車輪の下で」は、そのような社会情勢の中で、社会や教育制度に対する強い批判精神を含む作者ヘッセのメッセージ性を持った作品となっている。
 
 
車輪の下」とは何か
 
教科書でもお馴染みの有名な作品であるので、今さら解説の必要もないかもしれないが、「車輪の下」とは、人間をつかみ取ってしまう運命の歯車であり、画一的で抑圧的な教育制度、または、大人や社会との軋轢による子どもたちの閉塞感や、選択肢が少ない中、自身を押し潰そうとするものの象徴、を指しているものと思う。
 
この記事の冒頭で引用した、神学校の校長の穏やかで抑圧的な発言が怖い。
「善意」を持った大人たちに翻弄され、潰されそうになる子どもの話でもある。
 
いきなり結論から言うと、作品の主人公であるハンスは、大人たちの期待・思惑から逃げ出すことができず、潰されてしまうのだが、これを、「“警察や故郷の親元、児童相談所”などの“大人たち”から、“子どもたち”がひたすら逃げ出す話」である新海誠「天気の子」と比較してみると面白いかもしれない。
 
 
 
主人公ハンスの場合
 
車輪の下で」の主人公ハンスは、作者であるヘッセの精神的分身のような存在として描かれており、成績抜群の優等生として神学校に入学するが、精神を壊し、最終的に退学になるところまで一緒である。
 
ハンスは、神学校入学前から、自分が優等生であるというプライドが強く、他の子どもと自分は違う存在であるという自意識を持っている。
これは、ちやほやする周りの大人たちから植え付けられたものでもある。
 
神学校入学後も、そのような自意識とプライドを持ったまま、優等生として過ごしていたが、自由で知的で感傷的で、ときに衝動的な性質を持つ同級生ハイルナーとの交流の中で、これまでの自分に疑問を持ち始め、ハンスは少しづつ変わっていくことになる。
 
 
少年期の繊細に移り変わる感情を丹念に描く
 
先に述べたとおり、ヘッセは、当時のドイツの抑圧的で画一的な教育制度に問題意識を抱いており、作品の中でも随所に、読者に疑問を投げかけるような箇所が散見される。
 
あまり作者の批判精神ばかり込めてしまうと、その作品が説教くさく、つまらないものになってしまう可能性もあるが、この「車輪の下で」の魅力は、そのような社会性のあるメッセージの中においても、少年たちの繊細で移り変わる感性を丁寧に描かれているところであると思う。
 
ハンスとハイルナーがキスをする印象的なシーンを見ていこう。
 
同室となり、詩人で知的なハイルナーと少しづつ友情を深めていく勤勉なハンス。
 
ある日、些細ないさかいで喧嘩となり、他の同級生と殴りあった後、神学校の回廊で一人佇むハイルナー。
感傷的な友人の佇まいを見て、後を追ってきたハンス。
いくつかやりとりがあった後、ハイルナーは無言でハンスにキスをする。
 
ハンスの心臓はこれまでに感じたことのない息苦しさとともに高鳴った。暗い宿泊所に一緒にいて突然キスするなどということは、どこか冒険的な新しいこと、ひょっとしたら危ないことだった。こんな様子を見られたらどんなに恐ろしいか、という思いが浮かんだ。このキスは、他の生徒たちから見れば、さっきの涙よりもずっと滑稽で恥さらしだという確信があった。ハンスは何も言うことができなかったが、血が激しく頭に上り、できることならそこから走り去りたかった。
 
ハンスがまず始めに感じたのは、拒絶でも受容でもなく、他の同級生に見られたら不名誉であるということであった。
 
愛情なのか友情なのか、本人たちにとっても不明瞭であろう、不定形ではあるが確固として存在している親密さの感情が、二人の振る舞いを通じて丁寧に描かれる。
 
 
友情と裏切り、そして
 
その後も二人で過ごす時間は増えていく。
自由な発想を持つハイルナーに惹かれ、また影響され、学業一辺倒であったハンスの内面にも少しづつ変化が見られる。
 
このまま熱い友情が成就するかに見えた矢先、事件が起こる。
 
ハイルナーは、別の同級生との間で、楽器の練習室を巡るいざこざを起こす。
ハイルナーとその同級生は口論となり、神学校内の緊迫感のある追跡を経て、ハイルナーは、校長の書斎の前で同級生を蹴り飛ばしてしまう。
 
翌朝、他の生徒の前で、校長の説教が行われ、ハイルナーは謹慎処分を受ける。
他の生徒は、処分を受けたハイルナーを避け始める。謹慎処分を受けたハイルナーと付き合うことは、神学校からの自身の評判を落とすことにもつながるからだ。
 
ハイルナーは、他の生徒はともかく、ハンスは信頼していた。
しかし、ハンスは、自分の臆病さに打ち勝てず、ハイルナーを避けてしまい、友を裏切ってしまう。
 
友情に冬が訪れる。
クリスマスを迎え、神学校の生徒たちは帰郷するが、故郷から戻ってきた後、年明けに再び事件が起こる。
同級生の一人であるヒンディンガーが、誤って凍った湖に落ちてしまい、命を落としてしまうのだ。
 
ヒンディンガーの死は、生徒たちに衝撃を与える。
ハンスも大きな衝撃を受けた者の一人だ。
ヒンディンガーの死という大きな衝撃が他の価値観を相対化させたのだろう。
ハンスにとって、大人の期待に応えているだけの自分や、周りの空気に合わせ友人を傷つけてしまったという罪の意識を気づかせ、自分が心から正しいと思うことを行わせる契機となる。
 
ハンスは、優しい抑圧を行う大人たちの中で、ハイルナーとの友情を経ることで、今までとは違う理想を知り始めた。
 
ハンスがハイルナーに謝罪し、自身について告白を行うのが、下記の引用である。
 
「天気の子」の帆高は、“大人たち”から逃げ出した。
車輪の下で」のハンスは、友情だけがアジール(逃げ場所)となった。
 
さて、世の大人たちは、子どもたちに対して、いったい何ができるのだろうか?
 
「聞いてほしいんだ」と彼は言った。「ぼくはあのとき臆病で、きみを見捨ててしまった。だけどきみは、ぼくという人間を知ってるよね。神学校で上位の成績を取ること、できれば完全に一番になることが、ぼくの固い決意だった。きみはそれをガリ勉と呼んだし、ぼくとしてはその通りだと思ってるよ。でも、それはぼくなりの理想の追求の仕方だったんだ。ぼくはそれ以上のものを知らなかったんだから」