スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」ーどうしても村上春樹を思い出してしまう

 

 

「グレート・ギャッツビー」はもちろんのこと、スコット・フィッツジェラルドの作品は、これまで縁がなかったのか、一冊も読んだことがない。
 
なので、このまま読まずに人生を過ごしてもよかったのだが、心のどこかにいつか「グレート・ギャッツビー」を読まなくてはならないぞという、わずかではあるが、強迫観念のような気持ちがあった。
 
なぜそうなったかというと、
 
彼は永沢という名の東大の法学部の学生で、僕より学年がふたつ上だった。…ある日僕が食堂の日だまりで日なたぼっこをしながら「グレート・ギャッツビー」を読んでいると、となりに座って何を読んでいるかと訊いた。「グレート・ギャッツビー」だと僕は言った。面白いかと彼は訊いた。通して読むのは三度めだが読み返せば読み返すほど面白いと感じる部分がふえてくると僕は答えた。「『グレート・ギャッツビー』を三回読む男なら俺と友達になれそうだな」と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々は友達となった。十月のことだった。

 

村上春樹がそこまで言うならしょうがない。
 
ということで、「グレート・ギャッツビー」を読み始める。
 
 
読み始めて、「グレート・ギャッツビー」が人名であったことに驚きを受ける。
ギャッツビーって、人の名前だったのか…。
「偉大なる人生」とかそんな感じの(どんな感じだ)フレーズだと思っていた…。
 
 
読んだ本は、村上春樹訳のものではなく、光文社古典新訳文庫小川高義訳のものであったが、読んでいると、どうしても文面のあちらこちらで「村上春樹」感を感じてしまう(本当は影響の矢印が逆だが)。

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

例えば、人名だということで驚いたグレート・ギャッツビー氏だが、作品の途中で、本名(通称?)は、ジェイ・ギャッツビーであることが明らかになる。
 
ジェイというとどうしても思い出してしまうのが、
 
東京に帰る日の夕方、僕はスーツ・ケースを抱えたまま「ジェイズ・バー」に顔を出した。まだ開店してはいなかったが、ジェイは僕をなかに入れてビールを出してくれた。「今夜バスで帰るよ」ジェイは、フライド・ポテトにするための芋をむきながら何度か肯いた。
(村上春樹「風の声を聴け」)

 

である。
 
村上春樹の初期三部作で登場する、バーのマスターの名前が、ジェイであった。
この“ジェイ”とギャッツビーの人物像には、あまり共通したものを感じないが、村上春樹的に隠された共通性があるのかもしれない。
 
作品は、そう長いものではなく、読みやすいので、未読の方は、ぜひ読んでいただきたい。
作品が進んでいくにつれて、正体不明だったギャッツビーの素顔が、少しづつ明らかになっていくところに面白さがある作品だと思う。
 
 
だが、
 
…この隙をとらえたデイジーが私のほうへ体を寄せた。
「ひとつ家庭の秘密を教えるわ」ひどく熱心な内緒話になった。「いまの執事の鼻なんだけどね。執事の鼻のこと聞きたい?」
(スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」)
 
なんて、やりとりを読むと、デイジーが、まるで「ノルウェイの森」の緑とシンクロしているような気がしてきて、どうしても、村上春樹ワールドから頭が離れられない自分を見つけるのであった。
やれやれ。