井上勝生「幕末・維新」ー南アフリカから明治維新を考える

 

幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉 (岩波新書)

幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉 (岩波新書)

 

 

 

はじめに
 
書名から、幕末や明治維新の描写を期待した読者は、本書の冒頭で、まず、1853年の南アフリカの諸部族の様子が説明されることに、意外性を感じるだろう。
 
南アフリカ?日本の幕末や明治維新と何の関係が?
 
ペリーが江戸湾浦賀に来航したのが1853年6月、その約5ヶ月前に、ペリーは南アフリカケープタウンを訪れていたようだ。
 
南アフリカの部族社会は、「未開」とされていたが、実は包容力のある独自の文化を築いており、時代は下り、後にアパルトヘイトと戦うネルソン・マンデラのような指導力のある人物が生まれてくるような土壌があった。
 
では、黒船来航前の日本はどうだったのか?文明開化前の西欧に「遅れていた」だけの文化だったのか?
これが本書のテーマの一つである。
 
 
日本の幕末のステレオタイプなイメージ
 
日本の幕末のイメージは、概ね、以下のとおりだと思う。
 
江戸幕府は、鎖国政策をとり、長崎の出島などを除き、国外との貿易や交流に消極的であった。
その結果、大きな技術発展はなく、閉鎖的な社会環境の中、欧米に技術力や工業力で格差をつけられ、アヘン戦争など、隣国の清が欧米列強にいいようにされる中、日本も国際環境から大きなプレッシャーを受けてくる。
これに対して、江戸幕府は、有効な策を打つことができず、日米修好通商条約など、日本にとって不利な条約を提携し、「弱腰」外交を行う。
これに憤慨した、薩長を代表とする維新勢力は、武力を背景に江戸幕府を打ち倒し、和魂洋才、開明的な明治政府が誕生するのであった…。
 
 
江戸幕府の巧みな外交
 
このステレオタイプな幕末のイメージに対して、本作品は「再検討」を行っている。
 
印象的なのが、ペリー来航のシーン。
ペリーが浦賀湾から上陸する。
迎えるのは、浦賀奉行所の与力中島三郎助。
ペリーらが上陸次第、「日本の高官」でなければ対応しない、と宣言したのに対し、与力中島三郎助は、「日本の国法」では、「日本の高官」(奉行)が異国船に対応することはないと毅然とした対応をとる。
 
その後、ペリーが携えてきたアメリカ大統領の書翰を受け取るかどうか、幕府内で議論となるが、最終的に受けとるとした結論の根拠が、
 
①世界貿易の発展を説くオランダ国王の忠告(オランダからの国際情勢に関する情報提供もある)
アヘン戦争で大国である中国ですら欧米に敗北したという認識
③海洋国家でありながら、海岸の軍備など、軍事力が整っていないこと、
 
の三点、であったとする。
 
ここで印象的なのが、幕府のペリーに対する対応は、少なくとも現場レベルでは毅然とした対応をとっており、「弱腰」外交というイメージとは異なっていること。
そして、書翰を受けとる根拠として、海外情勢を踏まえたリアルな判断に基づいていること、である。江戸幕府は、オランダからの情報に基づいて、アメリカの来航があることも予測していたとされる。
 
文化面や産業面についても同様であり、江戸女性が欧米人から気品が溢れているとして評価が高かったこと、在来手工産業の結晶である江戸の快速船が、ペリーから称賛されたこと、など、江戸時代は「遅れていた」文化という見方に再検討を促す。
 
 
江戸時代や幕末を考え直すきっかけに
 
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」という幕末の有名な狂歌があるが、もしかすると、この歌や、維新勢力が唱えた「徳川幕府は「弱腰」」というイメージに、現代の我々も引っ張られすぎなのかもしれない。
 
もちろん本書の見方も、ある一面を切り取ったものかもしれない。
だが、改めて考え直すにはいい本だと思う。
江戸時代や幕末、明治時代については、今後も色々調べてみたい。