丸山眞男「忠誠と反逆」ー徳川幕府から明治維新へ

 

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

 

 

徳川幕府はなぜ成立したのか
 
 
明治維新や幕末の歴史が気になり、関連書籍を読みあさっている。
今回の記事では、その明治維新で打倒された、徳川時代の「幕藩体制」がなぜ成立したかを考えていきたい。
 
 
 
徳川幕府は、他の戦国大名と比較したときに、圧倒的な武力・経済力があり、その力を背景に全国に覇権を唱え、幕府を成立させたという。
 
だが、その「幕府」というものの中身は、よくよく考えてみると、奇妙なものである。
 
徳川幕府は、全国を統一したというが、厳密な意味で、日本全国の権力の一元化を成し遂げたというわけではない。
 
全国は統一したが、他の戦国諸大名の所領は「安堵」し、とりつぶしを行ったわけではない。
 
参勤交代や幕府による制限はあるにせよ、他の大名諸藩も、領内における行政権と武装権を引き続き保持したままであり、江戸時代を通じて、各藩による多様な藩内経営、産業政策がなされた。
 

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各地域に高度の自治を認めるあり方は、例えば、アメリカの連邦制があるが、アメリカは、植民地時代にあった大陸会議にせよ、その後成立した連合会議にせよ、各州の代表者により全体の意思決定がなされる形になっており、幕府一強である江戸幕府とは、政治体制がかなり異なるというべきだろう。
 
では、いったいなぜ徳川政権は、「幕府」の形をとったかというと、「戦国時代の群雄割拠状況の凍結」が考え方の基本にあったのではないかとされる。
 
徳川幕藩体制は室町から戦国にかけてのダイナミックな歴史過程から生じた領主分国制を、いわばスタティックに凍結したところに成立したものである。もし徳川家が大名分国制の否定の上に全国的なヘゲモニーを確立したならば、それは古典的な絶対主義への道であったはずである。けれども徳川氏は三河以来の譜代を中核とした主従結合をあくまで権力の核心として維持し、その力によって公家及び寺社勢力を非政治化するとともに、徳川氏と基本的に同じ組織原則に基づいた外様大小名をコントロールした。
(丸山眞男「開国」)

 

 
徳川家康は、「朕は国家なり」と宣言したフランスのルイ14世プロイセンのフリードリヒ2世のようにはならなかった。
戦国時代の群雄割拠の状況をそのまま社会体制とすることを試み、徳川家はその群雄の中の“一強”であり続けた。
 
室町時代末期の長い戦乱の時代は、日本人の大多数に安定と平和を求める思いを生じさせるには、十分な長さであっただろう。
変動より安定を求める潜在的な“声”を、徳川家康はわかっていたのかもしれない。
徳川幕府が成立したのは、そのような時代背景も踏まえて考えることが必要になると思う。
 
 
江戸時代の「平和」の背景にあるもの
 
 
徳川幕府は、戦国時代の群雄割拠状況をそのまま政治体制とした。
一定の制限の中、各大名は藩内の行政権を司り、経営に厳しくなる藩も現れ始める一方、家来の武士群は、江戸幕府成立以降も、未だに健在である。
 
徳川のレジームが戦国割拠の情況の凍結にあったことはなにより、幕府及び諸藩の行政組織が一朝事ある時にはそのまま軍事組織に転化し、戦時動員体制へのきりかえが瞬間にできるように仕組まれていた点にあらわれている。…徳川時代の最大の歴史的逆説は、このような爪の先まで武装した超軍事体制を基礎としながら、二世紀以上にもわたって内乱や革命的動乱から免れた「泰平」状態を現出させたことにある。
(丸山眞男「開国」)

 

幕府の成立にも関わらず維持された、幕府や各大名が率いる家臣や武士の集団は、事あるときには、動員体制がとれるほどであり、それを背景にした江戸時代の秩序と安定。
 
「江戸の泰平」とはよく言い、何となく江戸時代は平和な時代だという印象があるが、その背景にあるものを考え直してみる必要があるのかもしれない。
 
逆に言うと、大名の中の“一強”であった徳川幕府が巧妙にコントロールすることで、維持が可能となった社会体制であるともいえる。
 
幕末、黒船の“一撃”により、“一強”であったはずの幕府の覇権に綻びが出始めると、とたんに維持が難しくなり、幕末から明治維新にかけて、凍結していたはずの「戦国時代の群雄割拠の情況」が再び現れ始める。
丸山眞男も書いているように、明治維新を進めた維新勢力は、さながら戦国時代の“下克上”文化を引き継いでいるようである。
二世紀も「泰平」を築けたのは、もしろよくもったと言うべきなのかもしれない。
 

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幕末の“外交感覚”はどのように養われたか
 
 
まだまだ記事にしたい論点はあるのだが、記事が長くなってしまうので、最後にしよう。
 
先日の記事で、江戸幕府は、欧米列強との「外交」の場面において、「徳川幕府は「弱腰」」というイメージとは異なり、リアルな情勢判断をしていたのではないかという意見を取り上げた。
 
ではなぜ徳川幕府は外交現場においてリアルな判断ができたのか。
オランダから世界情勢の情報を仕入れていたのは、その一因かもしれないが、それだけではないはずで、前回の記事ではその謎をうまく解くことができなかった。
 
これについて、丸山眞男が興味深い仮説を立てているので、取り上げたい。
 
私の仮説を端的に述べるならば、まず最初の問題ー列強対峙のイメージが比較的スムーズに受容されたのは、日本の国内における大名分国制からの連想ではなかったろうか。戦国時代の固定化としての大名分国制によって多年養われた国内的イメージは、国際的危機感に触発されて、いまや世界的規模にまで拡大される。各藩が独自の武装権と行政権とを持ち、互いに鋭い警戒網をはりめぐらせながら、石高の大小にかかわらずほぼ対等の資格で相交渉し、殖産に教育に武術に自藩の名声を競う状況を、もっとダイナミックな形で想定してこれを世界に拡大すれば、あたかも大小多くの主権国家が対等に「外交」関係に立ち、しのぎを削って競争する国際社会の事態に、当たらずとも遠くないイメージがえられるわけである。
(丸山眞男「開国」)

 

 
つまり、欧米列強との外交を、戦国時代から江戸時代を通じて維持された、藩と藩との間の交渉・競争の延長線上で考えられたのではないかということだ。
 
江戸時代の各藩は、競い合い、交渉する。
 
一定の家臣団を維持せざるを得ない   ー企業的に言うと、人件費が固定費用になっている状態だー   ことも踏まえた藩内経営は、必然的によりよい産業政策を生み出すべく、他藩との競争に近い状態を生み出す。
 
また、所領間の争いは、さながら国家間の国境をめぐる紛争にも等しく見え、その解決には各藩の高い交渉能力が求められたのではないかと想像できる。
 
明治維新は、江戸時代をある意味で否定したが、江戸時代の長い蓄積があってこそ、明治維新が拓かれたのだ。
そのことを、江戸時代の様々な歴史的事実が語ってくれているように思う。