小島毅「朱子学と陽明学」ー明治維新の原動力

 

朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫)

朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 
 
前回のエントリーに続き、「幕末・明治維新」関連の記事。
 
明治維新の原動力の一つとして、江戸時代から人口に膾炙していた朱子学陽明学儒教の影響が挙げられることがある。
 
例えば、西郷隆盛
西郷隆盛は、よく知られているとおり、薩長同盟の締結や江戸城無血開城に取り組むなど、維新の原動力としてなくてはならない人物の一人。
 
そんな西郷が掲げた思想が、「敬天愛人」。
「天を敬い人を愛する」という意味で、京セラの稲森和夫など後世の経営者にも愛された言葉だが、どうしてもそこには、陽明学朱子学的な響きを感じてしまう。
 
吉田松陰勝海舟にも影響を与えた江戸時代の儒者である佐藤一斎に、西郷隆盛も影響を受けていたとされるので、当然のことではある。
 
ただ、あえて言うと、「敬天」の方は陽明学朱子学的な響きがあるが、「愛人」の方はややキリスト教的な響きもある。
 
陽明学朱子学的には、「愛人」とは使わず、どちらかと言うと、人を慈しむという意味で「仁」という言葉を使うのではないか。
 
そういえば、西郷隆盛より以前に「敬天愛人」を使った中村正直(未だに読み続けられる名著サミュエル・スマイルズ「Self Help(自助論)」を翻訳・出版し、福沢諭吉学問のすすめ」と並ぶベストセラーに)は、儒者であると同時にキリスト者でもあった。

 

[完訳版]セルフ・ヘルプ 自主独立の精神

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前書きが長くなったが、そのようにして、幕末・明治維新に対する朱子学陽明学の影響を勉強したく、小島毅朱子学陽明学」を読み進めた。
 
朱子学の日本への伝来
 
日本に朱子学が伝来したのは、鎌倉時代だと言われている。
臨済宗などの禅僧が中国に留学した際に、当時の流行の思想として持ち帰ってきたとされる。
 
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇建武の新政に、朱子学がどの程度影響していたかは、論争のあるところらしい。
北畠親房の「神皇正統記」は、建武の新政後、南北朝に分裂する朝廷について、南朝を正統とする論を立てたが、官軍に逆らい善政を施した北条義時北条泰時を評価するあたり、孟子の匂いを感じる。

 

神皇正統記 (岩波文庫)

神皇正統記 (岩波文庫)

 

 

 
朱子学の普及は、最初、京都の五山に留まっていたが、やがて、応仁の乱をきっかけとして全国に広まっていく。
特に薩摩と土佐で盛んとなり、周防(山口県)の大内氏も学問を奨励していたとされる。
いずれの土地も、明治維新勢力の中心地であるので、どうしても朱子学が維新に与えた影響を考えてしまう。
 
朱子学陽明学の日本への定着
 
江戸時代になると、朱子学は完全に官学となり、武家階層の間に広く浸透していく。
 
今もJR御茶ノ水駅近くにある湯島聖堂の土地は、徳川綱吉が、当時の朱子学の権威であった林家が学問所を設立するために与えた土地である。
 
また、東京ドームの最寄り駅である後楽園駅の名前の由来となった「後楽園」は、もともと朱子学が盛んだった水戸の徳川光圀命名したものであり、「先憂後楽(天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ、という宋時代の士大夫の理想)」という言葉からきている。
 
おわりに
 
江戸時代の日本は、鎖国政策で、単に狭い島国にとじ込もっていたわけではなく、様々な思想的な取り組みがなされており、その一つが朱子学儒教陽明学で、明治維新の原動力になった可能性がある。
 
なお、小島毅朱子学陽明学」は、朱子学と日本というテーマだけでなく、朱子学の中国における展開、朱子学陽明学の違い、理気二元論含む朱子学の理論など、網羅的に解説しており、広いテーマのわりに大変読みやすい内容となっているので、この分野について調べたい方には、おすすめです。