スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」ーどうしても村上春樹を思い出してしまう

 

 

「グレート・ギャッツビー」はもちろんのこと、スコット・フィッツジェラルドの作品は、これまで縁がなかったのか、一冊も読んだことがない。
 
なので、このまま読まずに人生を過ごしてもよかったのだが、心のどこかにいつか「グレート・ギャッツビー」を読まなくてはならないぞという、わずかではあるが、強迫観念のような気持ちがあった。
 
なぜそうなったかというと、
 
彼は永沢という名の東大の法学部の学生で、僕より学年がふたつ上だった。…ある日僕が食堂の日だまりで日なたぼっこをしながら「グレート・ギャッツビー」を読んでいると、となりに座って何を読んでいるかと訊いた。「グレート・ギャッツビー」だと僕は言った。面白いかと彼は訊いた。通して読むのは三度めだが読み返せば読み返すほど面白いと感じる部分がふえてくると僕は答えた。「『グレート・ギャッツビー』を三回読む男なら俺と友達になれそうだな」と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々は友達となった。十月のことだった。

 

村上春樹がそこまで言うならしょうがない。
 
ということで、「グレート・ギャッツビー」を読み始める。
 
 
読み始めて、「グレート・ギャッツビー」が人名であったことに驚きを受ける。
ギャッツビーって、人の名前だったのか…。
「偉大なる人生」とかそんな感じの(どんな感じだ)フレーズだと思っていた…。
 
 
読んだ本は、村上春樹訳のものではなく、光文社古典新訳文庫小川高義訳のものであったが、読んでいると、どうしても文面のあちらこちらで「村上春樹」感を感じてしまう(本当は影響の矢印が逆だが)。

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

例えば、人名だということで驚いたグレート・ギャッツビー氏だが、作品の途中で、本名(通称?)は、ジェイ・ギャッツビーであることが明らかになる。
 
ジェイというとどうしても思い出してしまうのが、
 
東京に帰る日の夕方、僕はスーツ・ケースを抱えたまま「ジェイズ・バー」に顔を出した。まだ開店してはいなかったが、ジェイは僕をなかに入れてビールを出してくれた。「今夜バスで帰るよ」ジェイは、フライド・ポテトにするための芋をむきながら何度か肯いた。
(村上春樹「風の声を聴け」)

 

である。
 
村上春樹の初期三部作で登場する、バーのマスターの名前が、ジェイであった。
この“ジェイ”とギャッツビーの人物像には、あまり共通したものを感じないが、村上春樹的に隠された共通性があるのかもしれない。
 
作品は、そう長いものではなく、読みやすいので、未読の方は、ぜひ読んでいただきたい。
作品が進んでいくにつれて、正体不明だったギャッツビーの素顔が、少しづつ明らかになっていくところに面白さがある作品だと思う。
 
 
だが、
 
…この隙をとらえたデイジーが私のほうへ体を寄せた。
「ひとつ家庭の秘密を教えるわ」ひどく熱心な内緒話になった。「いまの執事の鼻なんだけどね。執事の鼻のこと聞きたい?」
(スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」)
 
なんて、やりとりを読むと、デイジーが、まるで「ノルウェイの森」の緑とシンクロしているような気がしてきて、どうしても、村上春樹ワールドから頭が離れられない自分を見つけるのであった。
やれやれ。
 
 

ヘルマン・ヘッセ「車輪の下で」ーそれでも少年たちはキスをする

 

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)

 

 

ハンスは自分の手を、権力者が差し伸べた右手の上においた。校長はきまじめな穏やかさでハンスを見つめていた。「よろしい、それでいいよ、きみ。手を抜いちゃいかんよ。さもないと車輪の下敷きになってしまうからね」
 
作者ヘルマン・ヘッセについて
 
ヘルマン・ヘッセは、1877年に南ドイツに生まれる。
少年時代は、神学校に進学し、家族の期待を背負った堅実なエリートコースを歩みながらも、詩人になりたいという願望もあり、学校を脱走したり、精神を病んだ結果、退学となる。
 
退学後は、ノイローゼの治療や、機械工の見習いなどをして過ごすが、18歳で書店に就職すると生活が落ち着き始める。
22歳で最初の詩集を出し、27歳で出した小説で一躍有名となる。「車輪の下で」は、その次の作品であり、1906年、ヘッセが29歳のときに出版される。
 
1906年のドイツは、宰相ビスマルク下野後の、皇帝ヴィルヘルム2世による対外拡張政策が採られており、フランスとの間でモロッコを巡る紛争が発生している(第一次モロッコ事件)。
 
8年後の1914年には第一次世界大戦が勃発しており、ヘッセが戦争反対を表明すると、ドイツのジャーナリズムから攻撃されることになる。
 
車輪の下で」は、そのような社会情勢の中で、社会や教育制度に対する強い批判精神を含む作者ヘッセのメッセージ性を持った作品となっている。
 
 
車輪の下」とは何か
 
教科書でもお馴染みの有名な作品であるので、今さら解説の必要もないかもしれないが、「車輪の下」とは、人間をつかみ取ってしまう運命の歯車であり、画一的で抑圧的な教育制度、または、大人や社会との軋轢による子どもたちの閉塞感や、選択肢が少ない中、自身を押し潰そうとするものの象徴、を指しているものと思う。
 
この記事の冒頭で引用した、神学校の校長の穏やかで抑圧的な発言が怖い。
「善意」を持った大人たちに翻弄され、潰されそうになる子どもの話でもある。
 
いきなり結論から言うと、作品の主人公であるハンスは、大人たちの期待・思惑から逃げ出すことができず、潰されてしまうのだが、これを、「“警察や故郷の親元、児童相談所”などの“大人たち”から、“子どもたち”がひたすら逃げ出す話」である新海誠「天気の子」と比較してみると面白いかもしれない。
 
 
 
主人公ハンスの場合
 
車輪の下で」の主人公ハンスは、作者であるヘッセの精神的分身のような存在として描かれており、成績抜群の優等生として神学校に入学するが、精神を壊し、最終的に退学になるところまで一緒である。
 
ハンスは、神学校入学前から、自分が優等生であるというプライドが強く、他の子どもと自分は違う存在であるという自意識を持っている。
これは、ちやほやする周りの大人たちから植え付けられたものでもある。
 
神学校入学後も、そのような自意識とプライドを持ったまま、優等生として過ごしていたが、自由で知的で感傷的で、ときに衝動的な性質を持つ同級生ハイルナーとの交流の中で、これまでの自分に疑問を持ち始め、ハンスは少しづつ変わっていくことになる。
 
 
少年期の繊細に移り変わる感情を丹念に描く
 
先に述べたとおり、ヘッセは、当時のドイツの抑圧的で画一的な教育制度に問題意識を抱いており、作品の中でも随所に、読者に疑問を投げかけるような箇所が散見される。
 
あまり作者の批判精神ばかり込めてしまうと、その作品が説教くさく、つまらないものになってしまう可能性もあるが、この「車輪の下で」の魅力は、そのような社会性のあるメッセージの中においても、少年たちの繊細で移り変わる感性を丁寧に描かれているところであると思う。
 
ハンスとハイルナーがキスをする印象的なシーンを見ていこう。
 
同室となり、詩人で知的なハイルナーと少しづつ友情を深めていく勤勉なハンス。
 
ある日、些細ないさかいで喧嘩となり、他の同級生と殴りあった後、神学校の回廊で一人佇むハイルナー。
感傷的な友人の佇まいを見て、後を追ってきたハンス。
いくつかやりとりがあった後、ハイルナーは無言でハンスにキスをする。
 
ハンスの心臓はこれまでに感じたことのない息苦しさとともに高鳴った。暗い宿泊所に一緒にいて突然キスするなどということは、どこか冒険的な新しいこと、ひょっとしたら危ないことだった。こんな様子を見られたらどんなに恐ろしいか、という思いが浮かんだ。このキスは、他の生徒たちから見れば、さっきの涙よりもずっと滑稽で恥さらしだという確信があった。ハンスは何も言うことができなかったが、血が激しく頭に上り、できることならそこから走り去りたかった。
 
ハンスがまず始めに感じたのは、拒絶でも受容でもなく、他の同級生に見られたら不名誉であるということであった。
 
愛情なのか友情なのか、本人たちにとっても不明瞭であろう、不定形ではあるが確固として存在している親密さの感情が、二人の振る舞いを通じて丁寧に描かれる。
 
 
友情と裏切り、そして
 
その後も二人で過ごす時間は増えていく。
自由な発想を持つハイルナーに惹かれ、また影響され、学業一辺倒であったハンスの内面にも少しづつ変化が見られる。
 
このまま熱い友情が成就するかに見えた矢先、事件が起こる。
 
ハイルナーは、別の同級生との間で、楽器の練習室を巡るいざこざを起こす。
ハイルナーとその同級生は口論となり、神学校内の緊迫感のある追跡を経て、ハイルナーは、校長の書斎の前で同級生を蹴り飛ばしてしまう。
 
翌朝、他の生徒の前で、校長の説教が行われ、ハイルナーは謹慎処分を受ける。
他の生徒は、処分を受けたハイルナーを避け始める。謹慎処分を受けたハイルナーと付き合うことは、神学校からの自身の評判を落とすことにもつながるからだ。
 
ハイルナーは、他の生徒はともかく、ハンスは信頼していた。
しかし、ハンスは、自分の臆病さに打ち勝てず、ハイルナーを避けてしまい、友を裏切ってしまう。
 
友情に冬が訪れる。
クリスマスを迎え、神学校の生徒たちは帰郷するが、故郷から戻ってきた後、年明けに再び事件が起こる。
同級生の一人であるヒンディンガーが、誤って凍った湖に落ちてしまい、命を落としてしまうのだ。
 
ヒンディンガーの死は、生徒たちに衝撃を与える。
ハンスも大きな衝撃を受けた者の一人だ。
ヒンディンガーの死という大きな衝撃が他の価値観を相対化させたのだろう。
ハンスにとって、大人の期待に応えているだけの自分や、周りの空気に合わせ友人を傷つけてしまったという罪の意識を気づかせ、自分が心から正しいと思うことを行わせる契機となる。
 
ハンスは、優しい抑圧を行う大人たちの中で、ハイルナーとの友情を経ることで、今までとは違う理想を知り始めた。
 
ハンスがハイルナーに謝罪し、自身について告白を行うのが、下記の引用である。
 
「天気の子」の帆高は、“大人たち”から逃げ出した。
車輪の下で」のハンスは、友情だけがアジール(逃げ場所)となった。
 
さて、世の大人たちは、子どもたちに対して、いったい何ができるのだろうか?
 
「聞いてほしいんだ」と彼は言った。「ぼくはあのとき臆病で、きみを見捨ててしまった。だけどきみは、ぼくという人間を知ってるよね。神学校で上位の成績を取ること、できれば完全に一番になることが、ぼくの固い決意だった。きみはそれをガリ勉と呼んだし、ぼくとしてはその通りだと思ってるよ。でも、それはぼくなりの理想の追求の仕方だったんだ。ぼくはそれ以上のものを知らなかったんだから」
 

アクセス数がいっぱい伸びました

もう落ち着きましたが、この土日のブログのアクセス数が普段の何10倍にもなっていて、驚きました。

 

確認してみたところ、

①「Smart News」の記事に、下記のエントリーが取り上げられた。

Googleの検索に捕捉されるようになった。

の2つが理由のようです。

 

seia-youyong.hatenablog.com

 

このブログは、収益目的で書いているものではありませんし、アクセス数を目的としていたわけではないのですが、こうやってブログを読んで頂ける人が増えると、やっぱりうれしいものです。

 

今後も週一回程度の更新を行っていきますので、皆さまよろしくお願いいたします。

 

司馬遼太郎「対談集 日本人への遺言」ー宮崎駿は司馬遼太郎に何を語ったか

 

対談集 日本人への遺言 (朝日文庫)

対談集 日本人への遺言 (朝日文庫)

 

 

 

何気なく、家の書庫にあった本作品を手に取ってみると、大前研一武村正義田中直毅らに並んで、対談相手に「宮崎駿」の名前があるのに驚き、読み進める。
 
とはいえ、司馬遼太郎宮崎駿は以前にも対談を行っており、本対談が雑誌に掲載された1か月後である1996年2月、司馬は72歳でこの世を去ることになる。

 

時代の風音 (朝日文芸文庫)

時代の風音 (朝日文芸文庫)

 

 

 
 
この対談を読むまで、司馬遼太郎宮崎駿の間に、接点や共通点を思い浮かべたことがなかった。
 
だが、改めて考えてみると、2つの共通点を見いだすことができる。
 
1つは、太平洋戦争が作品に影響を与えている点。
 
1923年生まれの司馬は、大阪外国語学校(現 大阪大学国語学部)の卒業後、戦車隊に配属、中国満州地方での軍歴を経て、終戦を迎える。
軍歴も踏まえた昭和軍人に対する否定的感情から、坂本龍馬日露戦争の秋山兄弟など、大正以前の日本人を作品の主題に取り上げることにつながったことはよく知られている。
 
宮崎駿は1941年生まれと、司馬遼太郎とは18年の年の差がある。
当然、宮崎自身に軍歴はないが、軍需産業に携わる宮崎航空興学を経営する一族に生まれ、反戦主義者でありながらミリタリーマニアでもあるアンビバレントな側面が周囲の様々な解釈を生みつつも、「零戦」が大空で美しく飛ぶ「風たちぬ」を作り上げた。
 
 
2つめは、日本古来の自然を尊重する姿勢を持つ点。
 
森に生きる不思議な生物を描いた「となりのトトロ」や、森と人間の対立と共存を描いた「もののけ姫」を代表作に持つ宮崎駿はもちろんのこと、司馬遼太郎の、日本の土地や自然を守らなくてはならないという思いは、この対談においても滲み出ている。
 
宮崎  …たとえば、未来の地球の人口が百億になることを想定して物事を考えたりするのは、非常に傲慢な感じがする。とても百億までいかないだろうと思ってしまいます。
司馬   一つの種が百億にまで増え、他の動物や植物に打撃を与えつつ生きるなんて、確かにおかしいですね。しかし、鎌倉時代の人口は八百万だったそうです。いまは一億三千万。鎌倉時代に宮崎さんが生きていたら、とても一億三千万になるとは思わないでしょう。
宮崎   思わないでしょうね。
司馬   彼らは自然を含めて他に害を与えつつ、一億の人口を維持している。

 

 
司馬は、別の対談でも、田中角栄の「日本列島改造論」以降、土地が投機の対象になった日本の現実を批判し、古来から持っていたはずの、日本の土地に関する倫理を思い出すべきだと警鐘を鳴らしている。
 
 
司馬遼太郎は宮崎作品をどう思ったか
 
こうなると、先に宮崎駿の代表作として挙げた「となりのトトロ」や「もののけ姫」を、司馬がどう受け止めただろうか、気になるところだ。
 
司馬   宮崎さんの作品は本当によく見てるんですが(笑い)、「となりのトトロ」では、親玉のトトロと小さなトトロがでてきて、どれもこれも形がいいですね。親玉トトロのおなかのフワフワしたところとかね。ああいう、生き物としてのぬめりのような表情が、芸術の本質だと思ったりしています。
宮崎   みな妄想なんです。ぼくの妄想以外の何ものでもないんです。昔から、元気な森の中には恐ろしい物の怪がたくさんいるという妄想がありまして...。実は、いま取りかかっている映画にも物の怪が出てきます。森を切る人間と、それと戦う神々の話で、神々は獣の形をして出てきます。大変なテーマで作り始めてしまいました。

 

 
制作に3年かけたという「もののけ姫」は1994年にはストーリー・ラインが作成されており、翌1995年には企画書も完成。対談が行われた次の月である1996年2月から本編の撮影が開始されている。
この対談時点においては、「もののけ姫」撮影開始直前であり、宮崎の頭には、実現されるはずの「もののけ姫」の絵もかなり具体的にイメージされていたはずだ。
司馬との対談が、作品に影響を与えていたかもと考えると楽しい。
 
上記サイトで「もののけ姫」の制作日誌が読めます。スゴイ!
 
 
それにしても、自分の作品を「みな妄想なんです」と恐縮する宮崎の姿は、他の場所ではなかなか見られない。
 
 
作品は誰に対して描くのか
 
個人的に、この対談で最も好きな箇所は、宮崎駿の以下の発言部分だ。
 
宮崎   いや、「紅の豚」は作っちゃいけない作品だったんです。
司馬   どうして?
宮崎   ぼくはスタッフに子どものために作れ、子どものために作れといってきたんです。自分のために作るな、自分のためなら、本を読めといってきたんですが、恥ずかしいことに自分のために作ってしまいました。

 

 
おそらく「風たちぬ」もそうだろう。
もしかしたら他の作品もそうなのかもしれない。
 
宮崎のこの発言は、司馬遼太郎が、自分の作品に対する思いとして述べた、「23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」とする発言と共鳴しているようにも思う。
 
二人は、案外、近いところにいたのかもしれない。
 

坂口安吾「日本文化私観」ー「いい」ものは「いい」のだ

 

 

説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。
日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。

 

いわゆる「日本人論」には、どうしても、ある種の違和感が感じられてしまう。
その理由は、大きくいうと次の2つである。
 
 
まず、日本人の一定数にある特性が感じられたとして、それを日本人全体に適用できるのかという疑問。
ネット用語で表現すると、「主語が大きい」問題。
 
 
2つ目は、自身の特性を、適切に歪みなく認識できるのかという問題。
 
もし、日本人的といわれる文化体系に基づき自身の思考原理が決まっているとすれば、自身の前提となっている文化体系自体を、曇りなく認識することが可能なのだろうか。
要するに、「自分のことは自分ではわからない」問題、がある。
 
 
このような問題点を克服するために、「他者」の視点を持ち出すというやり方がある。
例えば、「日本人」を語るために「外国人から見た日本人」像を持ち出すやり方。
現代のテレビ番組などでもお馴染みである。
 
しかし、この「外国人」を持ち出すやり方は、時に「日本人」と「外国人」の違いを固定的なものとし、「外国」は普遍的なものであるという見方から、逆反射的に、特殊性のある「日本」を捉えるという考えに陥ってしまうことにもつながった。
 
 
オリエンタリズム 」と安吾のユーモア
 
このような外国・西欧=普遍、日本・東洋=特殊というような固定的な見方は、1978年にエドワード・サイードによる「オリエンタリズム」の発表以降、批判的に検討されることになるが、坂口安吾は、1942年に発表された「日本文化私観」で、このへんの機敏について、ユーモアたっぷりに論じている。
 

 

 

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

 

 

いつかコクトオが、日本へ来たとき、日本人がどうして和服を着ないのだろうと言って、日本が母国の伝統を忘れ、欧米化に汲々(きゅうきゅう)たる有様を嘆いたのであった。成程、フランスという国は不思議な国である。戦争が始ると、先ずまっさきに避難したのはルーヴル博物館の陳列品と金塊で、巴里(パリ)の保存のために祖国の運命を換えてしまった。彼等は伝統の遺産を受継いできたが、祖国の伝統を生むべきものが、又、彼等自身に外ならぬことを全然知らないようである。

 

「知日」外国人が嘆く。
和服こそ、日本人的な美を感じる伝統的な象徴であるのに、伝統を担うはずの日本人自らそれを捨て去るのは、何事かというわけだ。
 
このような、一見「日本文化」に寄り添いながらも、ある一定のイメージに押し込めようとする視線に対して、安吾は、その見方の「狭さ」を指摘する。
 
だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国に於(おい)て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、日本に於て行われて、外国には行われなかった習慣が、実は外国人にふさわしいことも有り得るのだ。

 

昔行われていたから、日本に相応しいかというと、そうではないこともあるかもしれない。
文化というのは、もっと柔軟に考えられるべきだ。
 
文化が魅力を放つのはなぜか
 
もちろん、いわゆる「日本文化」が素晴らしいのも間違いはない。
京都祇園の舞妓たちを東山ダンスホールに連れ出す描写は、この作品で最も魅力的なシーンの一つである。
 
僕達は五六名の舞妓を伴って東山ダンスホールへ行った。深夜の十二時に近い時刻であった。…ダンスホールは東山の中腹にあって人里を離れ、東京の踊り場よりは遥(はる)かに綺麗だ。満員の盛況だったが、このとき僕が驚いたのは、座敷でベチャクチャ喋しゃべっていたり踊っていたりしたのでは一向に見栄(みばえ)のしなかった舞妓達が、ダンスホールの群集にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、西洋人もてんで見栄えがしなくなる。成程、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった。

 

「着物とダンスホール」という一見突飛であるにも関わらず、この上なくしっくりくる組み合わせは、着物の魅力を引き出す上で説得力がある。

 
ここで、「着物」が独自の魅力を発揮し得たのは、いかなる理由によるものなのだろうか?
 
舞妓のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。

 

そう、重要なのは、実質なのだ。
必要なのはその文化が「いい」ものなのかどうかである。
「いい」ものは、それだけで「いい」ものなのだ。
 
 
「いい」ものは「いい」のだ
 

「日本文化私観」が著されてから70年以上たち、現在の我々は、観光産業、外国客誘客のため、“フジヤマ”“ゲイシャ”的なモチーフを微温的に利用し、“クール・ジャパン”の名のもと、マンガやアニメを、絵巻物等、日本の古来の伝統につながるもの、として称揚している。

 

霞を食べて生きていくことはできない以上、食いぶちを稼ぐために、過去の日本の文化のモチーフを利用するのも、やむを得ないのかもしれない。

 

だが、古来からのモチーフだけにこだわっていては、自らの見方を狭くしてしまわないだろうか。

 

アニメやマンガが素晴らしいのは、古来の日本の伝統につながっている「から」、素晴らしいのではない。

アニメやマンガは、伝統如何に関わらず、「それ自身で」素晴らしい。

そう、「いい」ものは「いい」のだ。

 

そんな当たり前のことを思いだし、健康的な認識を取り戻すために、「日本文化私観」はおすすめです。

 

週間はてなブログ

blog.hatenablog.com

 

週間はてなブログに、本ブログのエントリーがピックアップされて、紹介されたようです。

 

ありがたや。。。

 

seia-youyong.hatenablog.com

吉田一郎「世界飛び地大全」ー九龍城砦は如何にして九龍城砦となったのか?

 

 

俗に「無法地帯」と呼ばれるところは世界中にたくさんあるが、たいていは「犯罪が多くて治安が悪く、法律がまるで有名無実と化しているような場所」という程度の意味。
ところが九龍城砦は現実にどこの国の法律も適用されない一角だった。そんじょそこらの無法地帯とは格が違ったのだ。
 
国境線というものは、往々にして不合理的な引かれ方をしている。
 
例えば、アフリカ。
アルジェリアリビアスーダン等の直線で引かれた国境線は、欧米の植民地獲得争いの歴史によるものだと説明されるが、単にテリトリーを確定したいがためとは言え、自然条件や村落の分布、文化の状況等を踏まえた引き方になぜしなかったのかと嘆息する。
 
 
この「世界飛び地大全」においては、非合理的な国境線の引かれ方の一つである、「飛び地」にスポットを当て、その歴史的経緯や住民の暮らしぶり等を解説している。
 
ポルトガルの植民地の名残である東ティモールのオエクシ、
宇宙基地でありガガーリンもそこから宇宙に旅立ったカザフスタンの中のロシア領であるバイコヌール、
ドイツ騎士団や哲学者のカントでお馴染みの東プロイセン(現カリーニングラード)、
アラスカ、マカオジブラルタル等、「飛び地」は、植民地政策の名残から、あるいは戦争の結果や、独立運動から、その姿を世界に現し始める。
 
そのような背景を持つ「飛び地」たちの一つとして、「世界最大のスラム街」として有名だった香港の九龍城砦がある。
 
 
 
九龍城砦は、1994年に取り壊される際には、0.026㎞2の土地にビルがひきめし合い、5万人もの人間が生活していたとされている。
 
もともと九龍城砦は、付近で産出される塩や香木を守るために作られた砦であった。
 
アヘン戦争で1842年及び1860年香港島九龍半島が清(中国)からイギリスに割譲される。
九龍城砦は半島から少し離れていたので、この時は直接影響はなかった。
 
しかし、他の列強の中国進出を背景に香港防衛のための土地の必要を訴えたイギリスの要求のもと、1898年、九龍城砦をその範囲に含む、九龍半島北側の新界もイギリス領となることになった(現在の香港の領域に)。
 
しかし、清とイギリスの間で締結された条約では、九龍城砦租借地から除外され、清の官吏が常駐することになった。
これは、将来訪れるであろう香港の中国返還をスムーズに実現させるための清側の思惑によるものであったが、条約締結後の翌年、イギリスにより清の官吏は九龍城砦から追い出されてしまう。
 
こうして、イギリス、中国両国の思惑を背景に「飛び地」となった九龍城砦は、どちらの国の官吏も常駐しない土地となる。
 
 
清が倒れ、中華民国そして中華人民共和国と中国の政権が変わった後もその事情は変わらず、中国とイギリスが双方とも、締結した条約を盾に、九龍城砦の不干渉を相手側に対して要求するという流れが続く。
 
この間、香港の法律も適用されず、香港の官吏も常駐していないことで、麻薬や売春、賭博などが栄えたと信じられていたが、実はそんな大した場所ではなかったらしい。
 
両国の合間で、存在し続けた九龍城砦も、香港返還が近づくと、その存在が揺らぎ始め、1987年にイギリスが香港の法律を九龍城砦に適用することを発表し、中国政府も黙認する。
住民が抗議する中、94年に撤去されてしまい、現在、跡地は公園となっている。
 
 
 
現在も、中国との関係で大きく揺れ動いている香港。
その歴史を理解する上で「飛び地」という在り方に思いを馳せてみるのもいいかもしれない。
 
なお、著者である吉田一郎氏は、香港留学時には、ありし頃の九龍城砦に住んでいたこともあるようだ。