吉田一郎「世界飛び地大全」ー九龍城砦は如何にして九龍城砦となったのか?

 

 

俗に「無法地帯」と呼ばれるところは世界中にたくさんあるが、たいていは「犯罪が多くて治安が悪く、法律がまるで有名無実と化しているような場所」という程度の意味。
ところが九龍城砦は現実にどこの国の法律も適用されない一角だった。そんじょそこらの無法地帯とは格が違ったのだ。
 
国境線というものは、往々にして不合理的な引かれ方をしている。
 
例えば、アフリカ。
アルジェリアリビアスーダン等の直線で引かれた国境線は、欧米の植民地獲得争いの歴史によるものだと説明されるが、単にテリトリーを確定したいがためとは言え、自然条件や村落の分布、文化の状況等を踏まえた引き方になぜしなかったのかと嘆息する。
 
 
この「世界飛び地大全」においては、非合理的な国境線の引かれ方の一つである、「飛び地」にスポットを当て、その歴史的経緯や住民の暮らしぶり等を解説している。
 
ポルトガルの植民地の名残である東ティモールのオエクシ、
宇宙基地でありガガーリンもそこから宇宙に旅立ったカザフスタンの中のロシア領であるバイコヌール、
ドイツ騎士団や哲学者のカントでお馴染みの東プロイセン(現カリーニングラード)、
アラスカ、マカオジブラルタル等、「飛び地」は、植民地政策の名残から、あるいは戦争の結果や、独立運動から、その姿を世界に現し始める。
 
そのような背景を持つ「飛び地」たちの一つとして、「世界最大のスラム街」として有名だった香港の九龍城砦がある。
 
 
 
九龍城砦は、1994年に取り壊される際には、0.026㎞2の土地にビルがひきめし合い、5万人もの人間が生活していたとされている。
 
もともと九龍城砦は、付近で産出される塩や香木を守るために作られた砦であった。
 
アヘン戦争で1842年及び1860年香港島九龍半島が清(中国)からイギリスに割譲される。
九龍城砦は半島から少し離れていたので、この時は直接影響はなかった。
 
しかし、他の列強の中国進出を背景に香港防衛のための土地の必要を訴えたイギリスの要求のもと、1898年、九龍城砦をその範囲に含む、九龍半島北側の新界もイギリス領となることになった(現在の香港の領域に)。
 
しかし、清とイギリスの間で締結された条約では、九龍城砦租借地から除外され、清の官吏が常駐することになった。
これは、将来訪れるであろう香港の中国返還をスムーズに実現させるための清側の思惑によるものであったが、条約締結後の翌年、イギリスにより清の官吏は九龍城砦から追い出されてしまう。
 
こうして、イギリス、中国両国の思惑を背景に「飛び地」となった九龍城砦は、どちらの国の官吏も常駐しない土地となる。
 
 
清が倒れ、中華民国そして中華人民共和国と中国の政権が変わった後もその事情は変わらず、中国とイギリスが双方とも、締結した条約を盾に、九龍城砦の不干渉を相手側に対して要求するという流れが続く。
 
この間、香港の法律も適用されず、香港の官吏も常駐していないことで、麻薬や売春、賭博などが栄えたと信じられていたが、実はそんな大した場所ではなかったらしい。
 
両国の合間で、存在し続けた九龍城砦も、香港返還が近づくと、その存在が揺らぎ始め、1987年にイギリスが香港の法律を九龍城砦に適用することを発表し、中国政府も黙認する。
住民が抗議する中、94年に撤去されてしまい、現在、跡地は公園となっている。
 
 
 
現在も、中国との関係で大きく揺れ動いている香港。
その歴史を理解する上で「飛び地」という在り方に思いを馳せてみるのもいいかもしれない。
 
なお、著者である吉田一郎氏は、香港留学時には、ありし頃の九龍城砦に住んでいたこともあるようだ。