夏目漱石「草枕」ー「職人」漱石による非人情の世界
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
私も、確かにこの冒頭の表現から作品世界を展開していく流れがとても好きで、たまに読み返したくなる「名文」だと思う。
しかし、この冒頭部分だけでなく、「草枕」全体を最初から最後まで通読してみると、「情緒的」というよりは、はるかに「技巧的」で、主観を廃し作品をどう見せるか写実的に表現しようとする、「職人」夏目漱石の匠の技を感じさせる作品ではないかと思っている。
このことについては、夏目漱石自身も作品の中で技巧的な物語にすることを自己言及的に記している。
それは、自然の景色が、人情を離れ、ただ景色としてのみ心を楽しませるものであるからだ。
「草枕」の世界にとって、人情とは、俗世である「人の世」に心を戻してしまう過剰な存在である。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。
そこで、「草枕」の作品世界においては、「非人情」が追求される。
人情や俗界を離れ、自然のように外界をただ芸術として観賞すること、これが「草枕」の作品世界を貫くポリシーである。
しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組みと能役者の所作に見立てたらどうだろう。
ということで、「草枕」で描く旅中においては、そこで出逢う人物とのやり取りを、けっして「人情」を感じさせるものにしないように、作中の主人公が振る舞う。
旅中で出逢う女性と、風呂場で一緒になったり、息が髭にかかるほど接近するが、けっしてロマンチックな展開にはならない。
旅中の風雨に晒される主人公を描く過剰な漢文調で表現される水墨画のような場面。
そして、出逢った女性の容貌をこれまた過剰な表現を用いて皮肉的に長文で描写している場面。
私は、この2つの場面が特に好きだ。
最近、「草枕」を読んでいない方も、ご一読をお勧めします。