浅田彰がトランプを語る

 
 
おそらくは浅田彰の書いたものを読んでいたいというだけの理由で、このブログを読み始めているのを見出す。
 
 
…とのっけから、「構造と力」をパロってしまいましたが、久しぶりに浅田彰の書いた文章を読みました。「憂国放談」の対談形式で進められる時事ネタより、はるかに惹き付けられる内容であり、思わず読みふけってしまいました。
 
まず、アレサ・フランクリンモハメド・アリに代表されるマイノリティや多文化主義を賞揚するオバマヒラリー・クリントン、そしてそれに対立する政治的スターとしてトランプ大統領が出てきたというアメリカの状況が描かれています。
 
ここで、浅田は「偽善」(タテマエ)と「露悪」(ホンネ)という概念を使い、マイノリティを承認しながら、一方ではウォール街にどっぷりである「偽善」的なオバマクリントンに対し、ホンネを用い、彼らが掲げる多文化主義から排除(!?)される所得水準の低い白人男性を惹き付けるトランプ大統領が「露悪」の象徴とされています。
 
ところで、この「偽善」と「露悪」という概念は、90年代から柄谷行人や浅田が用いていた概念です。
しかし、90年代に「偽善」と「露悪」という概念で二人が表現していたのは、批判されるべき点もあるがそれでも自由や人権を追及しようとする欧米を「偽善」とし、善を諦めた姿をみんなで共有して安心しようとする伝統的な日本の姿勢を「露悪」的としていました。しかし、この20~30年で、「露悪」的と表現される姿勢は日本に限らず世界的なものとなったのでしょうか。興味深いところです。
 
さて、記事では、トランプ大統領的な「露悪」に対抗するために、現実的な「再配分の政治」を構築する必要があるとしています。ここで「再配分の政治」の担い手としては、「高潔な道」に行ったがトランプ大統領を打ち倒せないオバマではなく、「ワル」さを持ち、時には低劣な方法でファイトができるアレサ・フランクリンモハメド・アリ自体のような主体であるとして記事を結んでいます。
この結びの結論については、魅力的な表現であると感じさせる部分である一方、「ワル」さを持ちファイトができる主体がどういう人物なのか、うまく頭の中でイメージを作ることができませんでした。
 
とはいえ、様々なインスピレーションを与えてくれる文章だと思います。