「音楽」の将来を予想する

 

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

 

 

私は音楽が好きなので、音楽が人類にとってのよき友人であり続けることを、21世紀に生きる人間の一人として願っています。
 
ですが、将来の音楽は、今私たちが親しんでいるような音楽とは、少し違ったものになっていく可能性もあるでしょう。
 
 
もともと、音楽は言語から派生して発展してきたのだと、歴史は語ります。
 
例えば、聖歌。西欧音楽のルーツの一つに、グレゴリオ聖歌があることは、よく語られるところです。
そこで聖歌の音階は神の言葉と固く結びつけられ、現代のように五線譜の上で音階を構築せずとも、例えばお経のように、言葉の音韻やリズムから必然的にメロディが導き出されるような音楽が、修道院などで響いていた…。
 
そこから、時代が下り、モーツァルトやベートーベンの時代には、音楽は完全に言語や宗教から独立するようになります。
それを支えるのは、王候貴族から経済的に自立するようになった市民社会
貴族のパトロンがいなくとも演奏会は成立するようになり、一般市民が休日に友人たちと演奏をして楽しむようになります。
もちろんモーツァルトマリー・アントワネットの逸話が示すとおり、音楽家にとって、貴族とのつながりが失われたわけではありませんでしたが、その役割は徐々に市民社会に譲っていくことになる…。
音楽にとって、全盛期の一つであったでしょう。
 
さらに時代は下り、20世紀になっていくと、ヨーロッパの成熟化とアメリカの勃興、資本主義社会の発展に伴い、クラシック(西欧古典音楽)からポップス・ロックミュージック等(英米大衆音楽)が主流となり、音楽の発展を支えるのは、商業資本と視聴者である大衆となっていきます。
 
ここでは、音楽を作成するのは、商業資本(に支えられた職業音楽家)となり、音楽は大衆に馴染みやすいメロディとなる一方、音楽の録音・普及に多額の資本が必要となるに伴い、音楽の担い手と聞き手の分離が進んだ時代といってもいいのかもしれません。
 
ロックスターはかつての軍事的英雄のようにカリスマ的な存在となるとともに、一般庶民からは離れた存在となる…。
これはつい最近まで、1990年代までの音楽を説明できる状況であるように思えます。
 
 
しかし、2010年代の音楽をめぐる状況は、上記の状況からさらに変化したものだと言えそうです。
 
CDが売れないとは、よく聞くセリフです。
これは、上で描いた商業資本と大衆のつながりが失われつつあることを示します。
いや、ダウンロード販売やライブ等関連産業の経済的効果を考えれば、音楽業界の売り上げが落ちているわけではないとの意見もあると思いますが、その意見で述べる音楽産業の変化こそが、まさに上記の商業資本と音楽の結びつきが変化してしまったことを示しているものと思います。
 
私が言いたいのは、悲観論ではなく、音楽をめぐる状況の変化です。
 
現代におけるYoutubeの隆盛を考えてみましょう。
Youtubeに投稿される音楽は、もちろん従来型の商業ベースで販売している音楽もアップされますが、投稿者が作曲・演奏した音楽が投稿され、視聴者の支持を得ていることも知られています。ニコニコ動画等においても同様でしょう。
 
これは、現代のインターネットの発展やIT技術の進展が背景にあるものであり、技術発展に伴い、音楽の担い手の変化を示すものではないかと思えます。
 
音楽の発信手が、商業資本・職業音楽家から、かつてのベートーベンの時代のように、一般市民に戻りつつあるのかもしれません。
先ほど述べた、ダウンロード販売の発展も、音楽の担い手の多様化を示す現象(高度の資本の蓄積がなくとも音楽を普及させることができる)の一つなのではないでしょうか。
 
そこでは、音楽の担い手はカリスマ的なロックスターではなく、どこにでもいる普通の人間となる。一般家庭におけるPCの普及により、高度の資本がなくとも作曲が可能となる。
 
 
こうなると、今後、音楽がどのように発展していくかについてです。
ここからは何の裏付けもない、私の完全な想像となりますので、ご注意ください。
 
音楽の歴史を振り返ってみると、ベートーベン等、古典派時代のソナタ形式のように、担い手が多様化するに伴い、逆説的に音楽の「形」は、一定の形式を持つということがあるかもしれません。
 
Spotifyの隆盛、中国における音楽のネット配信の普及等を見るに、音楽は携帯してきくものという流れが進み、そこから、携帯しても聞きやすい音楽、が選ばれる傾向が生まれるはずです。
なお、ここでいう「形」とは、いわゆる音楽のジャンルを意味しているわけてではなく、もっと広い概念で使っています。
 
次に、一見、上とは矛盾しているように思えるかもしれませんが、音楽において言語との結びつきが強くなることに伴う「地域性」の要素が強くなるのではないかと考えます。
 
将来、PCのソフトで作曲するにせよ、自宅で楽器を演奏して作曲するにせよ、従来のように五線譜の上で設計するような作曲はしなくなるでしょう。
そうなると、かつて中世の修道院で流れていた聖歌のように、再び言葉と音楽の結びつきが強くなるのではないかと想像します。
 
聖歌だと、現代の音楽とのつながりがイメージしにくいかもしれないので、ヒップホップを挙げてもいいかもしれません。 
 
ヒップホップのラップは、まさに言葉としっかりと結びついた音楽です。言葉の韻こそがリズムを生み、メロディを生み出す。
ヒップホップは即興性も重要であり、五線譜の上で構築された音楽ではない。また、アメリカンカルチャーから生まれてきた英語圏の音楽ですが、このように、世界の様々な人間が音楽を発信することで、世界各地域の言語に結びついた韻とリズムを持った音楽が生まれてくるのではないかと想像します。
 
以上をまとめると、私が将来世界で普及すると考える音楽の形とは、
携帯しながら聞ける一定の形式を持った音楽でありながら、
世界各地の言語に基づいた地域性のある音楽、
なのではないかと考えます。
 
今後、新しい音楽が生まれてくるのを非常に楽しみにしています。